が如く去り行く」と歌うたも無理はない。青空は今南の一軸に巻き蹙《ちぢ》められ、煤煙《ばいえん》の色をした雲の大軍は、其青空をすら余《あま》さじものをと南を指してヒタ押しに押寄《おしよ》せて居る。つい今しがたまで雨を恋しがって居た乾き切った真夏《まなつ》の喘《あえ》ぎは何処へ往ったか。唯十分か十五分の中に、大地は恐ろしい雨雲の下に閉じこめられて、冷たい黯《くら》い冥府《よみ》になった。
雲の運動は秒一秒|劇《はげ》しくなった。南を指して流るゝ雲、渦《うず》まく雲、真黒に屯《とま》って動かぬ雲、雲の中から生るゝ雲、雲を摩《さす》って移り行く雲、淡くなり、濃くなり、淡くなり、北から東へ、東から西へ、北から西へ、西から南へ、逆流《ぎゃくりゅう》して南から東へ、世界中の煙突《えんとつ》と云う煙突をこゝに集めて煤煙の限りなく涌《わ》く様に、眼を驚かす雲の大行軍《だいこうぐん》、音響《おと》を聞かぬが不思議である。
彼等は驚異の眼を※[#「目+登」、第3水準1−88−91]って、此活動する雲の下に魅せられた様に彳《たたず》んだ。冷たい風がすうっすうっと顔に当る。後《おく》れ馳せに雷《かみなり》がそろ/\鳴り出した。北の方で、条《すじ》をなさぬ紅《くれない》や紫の電光《いなずま》が時々ぱっぱっと天の半壁《はんぺき》を輝《てら》して閃《ひら》めく。近づく雷雨を感じつゝ、彼等は猶頭上の雲から眼を離し得なかった。薄汚《うすぎたな》い煤煙色をした満天の雲はます/\南に流れる、水の様に、霧の様に、煙の様に。空は皆動いて居る。濶《ひろ》い空の何《ど》の一寸四方として動いて居ないのはない。皆恐ろしい勢を以て動いて居る。仰ぎ見る彼等は、流るゝ雲に引きずられてやゝもすれば駈《か》け出しそうになる足を踏《ふ》みしめ踏みしめ立って居なければならなかった。時々西の方で、或《ある》一処雲が薄《うす》れて、探照燈《たんしょうとう》の光めいた生白《なまじろ》い一道の明《あかり》が斜《ななめ》に落ちて来て、深い深い井《いど》の底でも照す様に、彼等と其足下の芝生《しばふ》だけ明るくする。彼等ははっと驚惶《おどろき》の眼を見合わす。と思うと、怒れる神の額《ひたい》の如く最早|真闇《まっくら》に真黒になって居る。妻児《さいじ》の顔は土色になった。草木も人も息を屏《ひそ》めたかの様に、一切の物音は絶えた。何処《どこ》から来たか、犬のデカが不安の眼つきをして見上げつゝ、大きな体を主人の脚にすりつける。
空は到頭雲をかぶって了った。著しく水気《すいき》を含んだ北風が、ぱっ/\と顔を撲《う》って来た。やがて粒だった雨になる。雷《らい》も頭上近くなった。雲見《くもみ》の一群《ひとむれ》は、急いで家に入った。母屋《おもや》の南面の雨戸だけ残して、悉く戸をしめた。暗いのでランプをつけた。
ざあっと降り出した。雷が鳴る。一庭《いってい》の雨脚を凄《すさま》じく見せて、ピカリと雷が光る。颯《ざあ》、颯と烈しく降り出した。
見る/\庭は川になる。雨が飛石《とびいし》をうって刎《は》ねかえる。目に入る限りの緑葉《あおば》が、一葉々々に雨を浴《あ》びて、嬉《うれ》しげにぞく/\身を震わして居る。
「あゝ好いおしめりだ」
斯く云った彼等は、更に
「まだ七時前だよ、まあ」
と婢《おんな》の云う声に驚かされた。
夕立から本降りになって、雨は夜すがら降った。
[#地から3字上げ](大正元年 八月十四日)
[#改ページ]
葬式
一
午前十時と云う触込《ふれこ》みなので、十一時に寺本さんの家に往って見ると、納屋《なや》と上塗せぬ土蔵《どぞう》の間の大きな柿の木の蔭に村の衆《しゅう》がまだ五六人、紙旗を青竹《あおだけ》に結《ゆ》いつけて居る。
「ドウも御苦労さま、此方様《こちらさま》でも御愁傷《ごしゅうしょう》な」
と云う慣例《かんれい》の挨拶を交《か》わして、其の群《むれ》に入る。一本の旗には「諸行無常《しょぎょうむじょう》」、一本には「是生滅法《ぜしょうめっぽう》」、一本には「皆滅々己《かいめつめっき》」、今一本には何とか書いてある。其上にはいずれも梵字《ぼんじ》で何か書いてある。
「お寺は東覚院《とうがくいん》ですか」
「否《いや》、上祖師ヶ谷の安穏寺《あんのんじ》です」
其安穏寺の坊《ぼう》さんであろう、紫紺《しこん》の法衣で母屋《おもや》の棺の前に座って居るのが、此方《こち》から見える。棺は緑色の簾《すだれ》をかけた立派な輿《こし》に納めて、母屋の座敷の正面に据《す》えてある。洋服の若い男が坊さんと相対して座《すわ》って居る。医者であろう。左の腕《うで》に黒布を巻いた白衣《はくい》の看護婦の姿が見える。
「看護婦さんも、癒《なお》って帰るじゃ帰り力があるが」と
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