履《ぞうり》の音をさせて入って来た。
「あッ綺麗だな、俺《おら》がのも明けてやるべ」
と云って、また二人して八九|疋《ひき》螢の島へ螢を放《はな》った。
主人《あるじ》と妻と逗留《とうりゅう》に来て居る都の娘と、ランプを隅へ押《お》しやって、螢と螢を眺むる子供を眺める。田圃《たんぼ》の方から涼しい風が吹いて来る。其風に瞬《またた》く小さな緑玉《エメラルド》の灯でゞもあるように、三十ばかりの螢がかわる/″\明滅する。縁にかけたり蹲《しゃが》んだりして、子供は黙って見とれて居る。
斯涼しい活画《いきえ》を見て居る彼の眼前に、何時《いつ》とはなしにランプの明るい客間《パーラー》があらわれた。其処に一人の沈欝《ちんうつ》な顔をして丈高《たけたか》い西洋人が立って居る。前には学生が十五六人腰かけて居る。学生の中に十二位の男の子が居る。其は彼自身である。彼は十二の子供で、京都同志社の生徒である。彼は同窓諸子と宣教師デビス先生に招かれて、今茶菓と話の馳走になって居るのである。米国南北戦争に北軍の大佐であったとか云うデビス先生は、軍人だけに姿勢が殊に立派で、何処やら武骨《ぶこつ》な点もあって、真面目な時は頗る厳格《げんかく》沈欝《ちんうつ》な、一寸|畏《おそ》ろしい様な人であったが、子供の眼からも親切な、笑えば愛嬌の多い先生だった。何かと云うと頭を掉《ふ》るのが癖だった。毎度先生に招かるゝ彼等学生は、今宵《こよい》も蜜柑やケークの馳走になった。赤い碁盤縞《ごばんじま》のフロックを着た先生の末子《ばっし》が愛想《あいそ》に出て来たが、うっかり放屁《ほうひ》したので、学生がドッと笑い出した。其子が泣き出した。デビス先生は左の手で泣く子の頭を撫《な》で、右手の金網の炮烙《ほうろく》でハゼ玉蜀黍《もろこし》をあぶりつゝ、プチヽヽプチヽヽ其はぜる響《おと》を口真似して笑いながら頭を掉られた。其つゞきである。先生は南北戦争の逸事《いつじ》を話して、ある夜|火光《あかり》を見さえすれば敵が射撃するので、時計を見るにマッチを擦《す》ることもならず、恰《ちょうど》飛んで居た螢を捉《つかま》えて時計にのせて時間を見た、と云う話をされた。
其れは彼が今此処に居る子供の一番小さなの位の昔であった。其後彼はデビス先生に近しくする機会を有たなかった。先生の夫人は其頃から先生よりも余程ふけて居られた。後《のち》気が変になり、帰国の船中太平洋の水屑《みくず》になられたと聞いて居る。デビス先生は男らしく其苦痛に耐え、宣教師|排斥《はいせき》が一の流行になった時代に処《しょ》して、恚《いか》らず乱れず始終一貫同志社にあって日本人の為に尽し、「吾生涯即吾遺言也」との訣辞《けつじ》を残して、先年終に米国に逝《ゆ》かれた。
螢を見れば常に憶《おも》い出すデビス先生を、彼は今宵《こよい》も憶い出した。
[#改ページ]
夕立雲
畑のものも、田のものも、林のものも、園のものも、虫も、牛馬も、犬猫も、人も、あらゆる生きものは皆雨を待ち焦《こが》れた。
「おしめりがなければ、街道は塵埃《ほこり》で歩けないようでございます」と甲州街道から毎日仕事に来るおかみが云った。
「これでおしめりさえあれば、本当に好いお盆《ぼん》ですがね」と内の婢《おんな》もこぼして居た。
両三日来非常に蒸《む》す。東の方に雲が立つ日もあった。二声《ふたこえ》三声|雷鳴《らいめい》を聞くこともあった。
「いまに夕立が来る」
斯く云って幾日か過ぎた。
今日早夕飯を食って居ると、北から冷《ひ》やりと風が来た。眼を上げると果然《はたして》、北に一団|紺※[#「青+定」、第4水準2−91−94]色《インジゴーいろ》の雲が蹲踞《しゃが》んで居る。其紺※[#「青+定」、第4水準2−91−94]の雲を背《うしろ》に、こんもりした隣家の杉樫の木立、孟宗竹の藪《やぶ》などが生々《なまなま》しい緑を浮《う》かして居る。
「夕立が来るぞ」
主人《あるじ》は大声に呼んで、手早く庭の乾し物、履物《はきもの》などを片づける。裏庭では、婢が駈けて来て洗濯物を取り入れた。
やがて食卓から立って妻児が下りて来た頃は、北天の一隅に埋伏《まいふく》し居た彼濃い紺※[#「青+定」、第4水準2−91−94]色《インジゴーいろ》の雲が、倏忽《たちまち》の中にむら/\と湧《わ》き起《た》った。何の艶《つや》もない濁った煙色に化《な》り、見る/\天穹《てんきゅう》を這《は》い上り、大軍の散開する様に、東に、西に、天心に、ず、ずうと広がって来た。
三人は芝生に立って、驚嘆《きょうたん》の眼を※[#「目+登」、第3水準1−88−91]《みは》って斯|夥《おびただ》しい雨雲の活動を見た。
あな夥しの雲の勢や。黙示録に「天は巻物を捲《ま》く
前へ
次へ
全171ページ中52ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング