樫《かし》の木の下は、ドングリが箒《ほうき》で掃く程だ。最早|豌豆《えんどう》や蚕豆《そらまめ》も蒔《ま》かねばならぬ。蕎麦も霜前に苅《か》らねばならぬ。また其れよりも農家の一大事、月の下旬から来月初旬にかけて、最早麦蒔きがはじまる。後押しの二人もついて、山の如く堆肥《たいひ》を積んだ車が頻《しきり》に通る。先ず小麦を蒔いて、後に大麦を蒔くのである。奇麗に平《なら》した畑は一条《ひとすじ》一条丁寧に尺竹《しゃくだけ》をあて、縄ずりして、真直ぐに西から東へ畝《うね》を立て、堆肥を置いて土をかけ、七蔵が種を振《ふ》れば、赤児を負った若いかみさんが竹杖《たけづえ》ついて、片足かわりに南から北へと足で土をかけて、奇麗に踏んづけて行く。燻炭《くんたん》肥料の、条播《すじまき》のと、農会の勧誘《かんゆう》で、一二年やって見ても、矢張仕来りの勝手がよい方でやって行くのが多い。
十一
霜らしい霜は、例年明治天皇の天長節《てんちょうせつ》、十一月三日頃に来る。手を浄《きよ》めに前夜雨戸をあくれば、鍼先《はりさき》を吹っかくる様な水気《すいき》が面を撲《う》って、遽《あわ》てゝもぐり込む蒲団の中でも足の先が縮《ちぢ》こまる程いやに冷《つめ》たい、と思うと明くる朝は武蔵野一面の霜だ。草屋根と云わず、禾場《うちば》と云わず、檐下《のきした》から転び出た木臼の上と云わず、出し忘れた物干竿の上のつぎ股引《ももひき》と云わず、田も畑も路も烏《からす》の羽の上までも、真白だ。日が出ると、晶々《きらきら》とした白金|末《まつ》になり、紫水晶末になるのである。山風をあらしと云えば霜の威力を何に譬《たと》えよう? 地の上の白火事《しろかじ》とでも云おう。大抵のものは爛《ただ》れてしまう。桑と云う桑の葉は、ぐったりとなって、二日もすれば、歯がぬける様にひとりでにぼろりと落ちる。生々《いきいき》として居た甘藷の蔓は、唯一夜に正しく湯煎《うで》られた様に凋《しお》れて、明くる日は最早真黒になり、触《さわ》ればぼろ/\の粉《こな》になる。シャンとして居た里芋《さといも》の茎《くき》も、ぐっちゃりと腐った様になる。畑が斯うだから、園の内も青い物は全滅《ぜんめつ》、色ある物は一夜に爛《ただ》れて了うのである。霜にめげぬは、青々《あおあお》とした大根の葉と、霜で甘くなる漬菜《つけな》の類《たぐい》と、それから緑の縞《しま》を土に織り出して最早ぼつ/\生えて来た大麦小麦ばかりである。
霜は霽《はれ》に伴う。霜の十一月は、日本晴《にっぽんばれ》の明るい明るい月である。富士は真白。武蔵野の空は高く、たゝけばカン/\しそうな、碧瑠璃《へきるり》になる。朝日夕日が美しい。月や星が冴《さ》える。田は黄色から白茶《しらちゃ》になって行く。此処其処の雑木林や村々の落葉木が、最後の栄《さかえ》を示して黄に褐《かち》に紅に照り渡る。緑の葉の中に、柚子《ゆず》が金の珠を掛ける。光明は空《そら》から降《ふ》り、地からも湧《わ》いて来る。小学校の運動会で、父兄が招かれる。村の恵比寿《えびす》講《こう》、白米五合銭十五銭の持寄りで、夜徹《よっぴて》の食ったり飲んだり話したりがある。日もいよ/\短くなる。甘藷や里芋も掘って、土窖《あな》に蔵《しま》わねばならぬ。中稲《なかて》も苅らねばならぬ。其内に晩稲《おくて》も苅らねばならぬ。でも、夏の戦闘《たたかい》に比べては、何を云っても最早しめたものである。朝霜、夜嵐《よあらし》、昼は長閑《のどか》な小春日がつゞく。「小春日や田舎に廻る肴売《さかなうり》」。「※[#「魚+是」、第4水準2−93−60]《しこ》は? ※[#「魚+是」、第4水準2−93−60]?」「秋刀魚《さんま》や秋刀魚!」のふれ声が村から村を廻《まわ》ってあるく。牛豚肉は滅多《めった》に食わず、川魚は少《すくな》し、稀《まれ》に鼬《いたち》に吸われた鶏《とり》でも食えば骨《ほね》までたゝいて食い、土の物の外は大抵|塩鮭《しおざけ》、めざし、棒鱈にのみ海の恩恵を知る農家も、斯様《こん》な時には炙《あぶ》れば青い焔《ほのお》立《た》つ脂ぎった生魚を買って舌鼓《したつづみ》うつのである。
月の末方《すえがた》には、除隊の兵士が帰って来る。近衛か、第一師団か、せめて横須賀《よこすか》位《ぐらい》ならまだしも、運悪く北海道三界|旭川《あさひがわ》へでもやられた者は、二年ぶり三年ぶりで帰って来るのだ。親類《しんるい》縁者《えんじゃ》は遠出の出迎、村では村内少年音楽隊を先に立て、迎何々君之帰還《なになにくんのきかんをむかう》の旗押立てゝ、村界まで迎いに出かける。二年三年の兵営《へいえい》生活《せいかつ》で大分|世慣《よな》れ人ずれて来た丑之助君が、羽織袴、靴、中折帽、派手《はで》をする向
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