しみ》です。父は九十三、母は九十一、何卒《どうか》私共もあやかりたい。先頃の大地震に、私はある人に言いました。「借金もちは、天道様《てんとうさま》が中々殺さぬよ」。私も夥《おびただ》しい借金もちです。五十年来幾度となく死地を脱して斯く生かされて居るのも、あの因業爺《いんごうおやじ》が「分厘までも」払わさずには置かぬ心底がまざ/\と読まれます。私も昔は借金とも思わず無暗《むやみ》に重《かさ》ねた時代がありました。借金と気がついて急に悄気《しょげ》た時期もあります。わが借金は棚《たな》にあげ、他《ひと》の少々の貸金をはたって歩いた時もあります。山なす借金、所詮《しょせん》払えそうもないので、ドウセ毒皿だ、クソ、ドシドシ使い込んでやれ、踏倒して逃げてやれ、と悪度胸《わるどきょう》を据《す》えた時もあります。然しもう潔《いさぎよ》く観念しました。返えします。奇麗に返えします。成る事なら利子をつけて返えします。返えさずに居れなくなりました。返えすが楽にさえ悦喜にさえなって来ました。目下整理中です。総《そう》じて義務が道楽にならねば味がない。借金返えしも渋面《じゅうめん》つくって、さっさと返えしては曲《きょく》が無い。『人生は厳粛也、芸術は快活也。』真面目《まじめ》に計算しましょう。笑顔《えがお》で払いましょう。其為にこそ私共は生れて来、生きて来たのです。
(二)
私共が粕谷に越して来ての十七年は、やはり長い年月でした。村も大分変りました。東京が文化が大胯《おおまた》に歩いて来ました。「みみずのたはこと」が出た時、まだ線路工事をやって居た京王電鉄が新宿から府中まで開通して、朝夕の電車が二里三里四里の遠方から東京へ通う男女学生で一ぱいになったり、私共の村から夏の夕食後に一寸九段下あたりまで縁日を冷《ひ》やかしに往って帰る位何の造作《ぞうさ》もなくなったのは、もう余程以前の事です。私共の外遊中に、名物巣鴨の精神病院がつい近くの松沢に越して来ました。嬉《うれ》しいような、また恐《こわ》いような気がします。隣字《となりあざ》の烏山には文化住宅が出来ました。別荘式住宅も追々建ちます。思いがけなく藪陰から提琴《ヴァイオリン》の好い音が響いたり、気どったトレモロが聞こえたりします。燈台下暗かった粕谷にも、昨秋から兎に角電燈がつきました。私共が村入当時二十七戸の粕谷が、新家
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