鮮、山陰、京畿《けいき》とぶらついた旅行は、近づく運命を躱《かわ》そうとてののたうち廻りでした。然し盃《さかずき》は否応《いやおう》なしに飲まされます。私は阿容※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]《おめおめ》とまた粕谷の旧巣《ふるす》に帰って来ました。
大正三年が来ました。「死」の年です。五月に私の父が九十三歳で死にました。私は父を捨て、「みみずのたはこと」の看板娘であった鶴子を其父母に返えし、門を閉じ、人を謝して、生きながら墓の中に入りました。八月に独逸を相手の世界戦が始まります。世界は死の蔭に入りました。
其十二月に私は自伝小説「黒い眼と茶色の目」を出しました。私にとって自殺の第一刀です。同時に「生」への安全弁でもありました。然し要するに自他を傷つくる爆弾であった事も諍《あらそ》えません。早速妻が瀕死の大病に罹《かか》り、四ヶ月を病院に送りました。生命を取りとめたが不思議です。
世界が血みどろになって戦う大正四年、大正五年、大正六年、私は閉門生活をつづけて居ました。懊悩《おうのう》は気も狂うばかりです。傍《かたわら》に妻あり踏むに土あって、私は狂わず死なざるを得ました。私は真面目に畑仕事をしました。然し文筆の人に鍬のみでは足りません。大正六年の三月「死の蔭に」を出しました。大正二年の秋の逃避旅行の極めて皮相な叙述です。
すべてには限《きり》があります。「死の蔭に」が出で、父の三年の喪《も》が果てる頃から、私はそろ/\死の蔭を出ました。大正七年は私共夫妻の銀婚です。其四月、母の九十の誕辰に私は「新春」を出しました。生の福音、復活の凱歌です。春に「新春」が出て、秋の十一月十一日に、さしも五年に渉《わた》って世界を荒らした大戦がばったり止んだのであります。
世界が死の蔭を出て、大戦後始末の会議が※[#濁点付き片仮名「ヱ」、1−7−84]ルサイユに開かれた大正八年一月私共夫妻は粕谷を出でて世界一周の旅に上りました。旅費の前半は「新春」の読者、後半は後《あと》で出た「日本から日本へ」の読者から出たのであります。新嘉坡《シンガポオル》まで往った時、私の母が東京で九十一歳で死にました。父を捨てた子は、母の死に目にも会いません。私共は尚《なお》西へ西へと旅をつづけ、何時しか世界を一周して、大正九年の三月日本に帰って来ました。
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