かはだか》の英雄である、原人《げんじん》である。彼等は元来裸である。何ものも有《も》たない。有たないから失うことが出来ない。失うものがないから、彼等は恐るゝことを知らぬ。生存競争の戦闘《たたかい》に於て、彼等は常に寄手《よせて》である。唯進んで撃《う》ち而して取ればよいのである。守ると云うは、有つ者の事である。守ると云うは、已に其第一歩に於て敗北《はいぼく》である。
 世には有たぬ程強い事はない。有たぬ者は、すべてのものを有つのである。彼等には明日は無い。昨日も無い。唯今日がある、刹那《せつな》がある。彼等は神を恐れない。王者《おうしゃ》を恐れない。名聞《みょうもん》を思わない。彼等は失うべき富もない。愛《おし》む可き家族も無い。彼等は其れより以下に落つ可き何等の位置も有たない。国家か、何ものぞ。法律か、何の関係ぞ。習慣《しゅうかん》、何の束縛《そくばく》ぞ。彼等は胃の命令と、腸《ちょう》の法律と、皮膚《ひふ》の要求と、舌頭の指揮と、生殖器の催促《さいそく》の外、何の縛《しば》らるゝ処がない。彼等は自然力其ものである。一触《いっしょく》してタイタニックを沈めた氷山である。華麗《かれい》な羅馬の文明を鉄蹄《てってい》に蹂躙《じゅうりん》した北狄《ほくてき》蛮人である。一切の作為《さくい》文明《ぶんめい》は、彼等の前に灰の如く消えて了う。
 土を穿ち、土を移し、土を平《な》らし、土を積む。彼等は工兵の蟻《あり》である。同じ土に仕事する者でも、農は蚯蚓《みみず》である。蚯蚓は蟻を恐れる。
 有つ者にとっては、有たぬ者程恐ろしい者は無い。土方人足の村で恐れられるも尤《もっとも》である。然しながら何ものも有たぬ彼等も、まだ生命《いのち》と云うものを有って居る。彼等は生命を惜《おし》む。此れが彼等の弱点である。有たずに強い彼等も、有てば弱くなる虞《おそれ》がある。世にも恐ろしい者は、其生命さえも惜まぬのみか、如何なる条件をもって往っても妥協《だきょう》の望がない人々である。彼等は何ものを有っても満足せぬ。彼等は全宇宙《ぜんうちゅう》を吾有《わがもの》にしなければ満足せぬ。寧《むしろ》吾を全宇宙に与えなければ満足せぬ。其一切を獲ん為には、有てる一切を捨《す》てゝ了う位は何でもない。耶蘇も仏陀《ぶつだ》も斯恐ろしい人達である。
[#地から3字上げ](明治四十五年 七月十三日)
[#
前へ 次へ
全342ページ中262ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング