のしみ》になる。
 然しいつまで川水を汲んでばかりも居られぬので、一月ばかりして大仕掛《おおじかけ》に井浚《いどさらえ》をすることにした。赤土《あかつち》からヘナ、ヘナから砂利《じゃり》と、一|丈《じょう》余《よ》も掘って、無色透明無臭而して無味の水が出た。奇麗に浚《さら》ってしまって、井筒にもたれ、井底《せいてい》深く二つ三つの涌き口から潺々《せんせん》と清水《しみず》の湧く音を聴いた時、最早《もう》水汲みの難行苦行《なんぎょうくぎょう》も後《あと》になったことを、嬉《うれ》しくもまた残惜しくも思った。
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     憶出のかず/\

       一

 跟《つ》いて来た女中は、半月手伝って東京へ帰った。あとは水入らずの二人きりで、田園生活が真剣にはじまった。
 意気地の無い亭主に連添《つれそ》うお蔭で、彼の妻は女中無しの貧乏世帯《びんぼうじょたい》は可なり持馴れた。自然が好きな彼女には、田園生活必しも苦痛ばかりではなかった。唯潔癖な彼女は周囲の不潔に一方《ひとかた》ならず悩《なや》まされた。一番近い隣《となり》が墓地に雑木林《ぞうきばやし》、生きた人間の隣は近い所で小一丁も離れて居る。引越早々所要あって尋ねて来た老年の叔母《おば》は「若い女なぞ、一人で留守《るす》は出来ない所ですねえ」と云った。それでも彼の妻は唯一人留守せねばならぬ場合もあった。墓地の向う隣に、今は潰れたが、其頃博徒の巣《す》があって、破落戸漢《ならずもの》が多く出入した。一夜家をあけてあくる夕帰った彼は、雨戸の外に「今晩は」と、ざれた男の声を聞いた。「今晩は」と彼が答えた。雨戸の外の男は昨日主が留守であったことを知って居たが、先刻《さっき》帰ったことを知らなかったのである。大にドキマギした容子《ようす》であったが、調子を更えて「宮前《みやまえ》のお広さん処へは如何《どう》参るのです?」と胡魔化した。宮前のお広さん処は、始終諸君が入り浸《びた》る其|賭博《とばく》の巣なのである。主の彼は可笑しさを堪《こら》え、素知らぬ振《ふり》して、宮前のお広さん処へは、其処の墓地に傍《そ》うて、ずッと往《い》って、と馬鹿叮嚀《ばかていねい》に教えてやった。「へえ、ありがとうございます」と云って、舌でも出したらしい気はいであった。門戸《もんこ》あけっぱなしで、人近く自然に近く生活すると、色々の薄
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