は、都の女等を憎《に》くさげに睨《にら》んで居た。彼等は先住の出で去るを待って、畑の枯草の上に憩《いこ》うた。小さな墓場一つ隔てた東隣《ひがしどなり》の石山氏の親類だと云う家《うち》のおかみが、莚《むしろ》を二枚貸してくれ、土瓶の茶や漬物の丼《どんぶり》を持て来てくれたので、彼等は莚の上に座《すわ》って、持参の握飯を食うた。
十五六の唖に荷車を挽《ひ》かして、出る人々はよう/\出て往った。待ちかねた彼等は立上って掃除に向った。引越しあとの空家《あきや》は総じて立派なものでは無いが、彼等はわが有《もの》になった家《うち》のあまりの不潔に胸をついた。腐れかけた麦藁屋根《むぎわらやね》、ぼろ/\崩《くず》れ落ちる荒壁、小供の尿《いばり》の浸《し》みた古畳《ふるだたみ》が六枚、茶色に煤《すす》けた破れ唐紙が二枚、蠅《はえ》の卵《たまご》のへばりついた六畳一間の天井と、土間の崩れた一つ竈《へっつい》と、糞壺《くそつぼ》の糞と、おはぐろ色した溷《どぶ》の汚水《おすい》と、其外あらゆる塵芥《ごみ》を残して、先住は出て往った。掃除の手をつけようもない。女連は長い顔をして居る。彼は憤然《ふんぜん》として竹箒押取り、下駄ばきのまゝ床《ゆか》の上に飛び上り、ヤケに塵の雲を立てはじめた。女連も是非なく手拭《てぬぐい》かぶって、襷《たすき》をかけた。
二月の日は短い。掃除半途に日が入りかけた。あとは石山氏に頼んで、彼等は匆惶《そそくさ》と帰途に就いた。今日《きょう》も甲州街道に馬車が無く、重たい足を曳きずり/\漸《ようや》く新宿に辿《たど》り着いた時は、女連はへと/\になって居た。
二
明くれば明治四十年二月二十七日。ソヨとの風も無い二月には珍らしい美日《びじつ》であった。
村から来てもらった三台の荷馬車と、厚意で来てくれた耶蘇教信者仲間の石山氏、角田新五郎氏、臼田《うすだ》氏、角田勘五郎氏の息子、以上四台の荷車に荷物をのせて、午食《ひる》過ぎに送り出した。荷物の大部分は書物と植木であった。彼は園芸《えんげい》が好きで、原宿五年の生活に、借家《しゃくや》に住みながら鉢物も地植のものも可なり有って居た。大部分は残して置いたが、其れでも原宿から高樹町へ持て来たものは少くはなかった。其等は皆持て行くことにした。荷車の諸君が斯様なものを、と笑った栗、株立《かぶだち》の榛《は
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