がある、往《い》ったら如何だと云う。伝道師は御免を蒙る、生活に行くのです、と云ったものゝ、玉川と云うに心動いて、兎に角見に行きましょうと答えた。そうか、では何日《なんにち》に案内者をよこそう、と牧師は云うた。
 約束の日になった。案内者は影も見せぬ。無論牧師からはがき一枚も来ぬ。彼は舌鼓《したつづみ》をうって、案内者なしに妻と二人《ふたり》西を指して迦南《カナン》の地を探がす可く出かけた。牧師は玉川の近くで千歳村《ちとせむら》だと大束《おおたば》に教えてくれた。彼等も玉川の近辺で千歳村なら直ぐ分かるだろうと大束にきめ込《こ》んで、例の如くぶらりと出かけた。

       二

「家を有つなら草葺《くさぶき》の家、而して一反でも可《いい》、己が自由になる土を有ちたい」
 彼は久しく、斯様な事を思うて居た。
 東京は火災予防として絶対的草葺を禁じてしまった。草葺に住むと云うは、取りも直さず田舎に住む訳《わけ》である。最近五年余彼が住んだ原宿の借家も、今住んで居る青山高樹町の借家も、東京では田舎近い家で、草花位つくる余地はあった。然し借家借地は気が置ける。彼も郷里の九州には父から譲られた少しばかりの田畑《たはた》を有って居たが、其土は銭に化けて追々《おいおい》消えてしまい、日露戦争終る頃は、最早|一撮《ひとつまみ》の土も彼の手には残って居なかった。そこで草葺の家と一反の土とは、新に之を求めねばならぬのであった。
 彼が二歳から中二年を除いて十八の春まで育った家は、即ち草葺の家であった。明治の初年薩摩境に近い肥後《ひご》の南端の漁村から熊本の郊外に越した時、父が求めた古家で、あとでは瓦葺《かわらぶき》の一棟が建増されたが、母屋《おもや》は久しく茅葺であった。其茅葺をつたう春雨の雫《しずく》の様に、昔《むかし》のなつかし味が彼の頭脳に滲《し》みて居たのである。彼の家は加藤家の浪人の血をひいた軽い士の末《すえ》で、代々田舎の惣庄屋をして居て、農には元来縁浅からぬ家である。彼も十四五の頃には、僕に連れられ小作米取立の検分に出かけ、小作の家で飯を強いられたり無理に濁酒の盃をさゝれたりして困った事もあった。彼の父は地方官吏をやめて後、県会議員や郷先生《ごうせんせい》をする傍、殖産興業の率先をすると謂って、女《むすめ》を製糸場の模範工女にしたり、自家《じか》でも養蚕《ようさん》製糸《
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