ない、と切に忠告した。儂は顧みなかった。古い家ながら小人数《こにんず》には広過ぎる家《うち》を建て、盛に果樹観賞木を植え、一切《いっさい》永住方針を執って吾生活の整頓に六年を費した。儂は儂の住居が水草を逐うて移る天幕《てんと》であらねばならぬことを知らぬでは無かった。また儂自身に漂泊の血をもって居ることを否《いな》むことは出来なかった。従来儂の住居が五六年を一期とする経歴を記憶せぬでは無かった。だから儂は落ちつきたかった。執着《しゅうちゃく》がして見たかった。自分の故郷を失ったからには、故郷を造って見たかった。而して六年間|孜々《しし》として吾巣を構えた。其結果は如何である? 儂が越して程なく要《よう》あって来訪した東京の一|紳士《しんし》は、あまり見すぼらしい家の容子《ようす》に掩い難い侮蔑を見せたが、今年来て見た時は、眼色に争《あらそ》われぬ尊敬を現わした。其れに引易え、或信心家は最初片っ方しか無い車井《くるまい》の釣瓶なぞに随喜したが、此頃ではつい近所に来て泊っても寄《よ》っても往《い》かなくなった。即|儂《わし》の田園生活は、或眼からは成功で、或眼からは堕落に終ったのである。
堕落か成功か、其様《そん》な屑々《けち》な評価は如何でも構わぬ。儂は告白する、儂は自然がヨリ好きだが、人間が嫌《いや》ではない。儂はヨリ多く田舎を好むが、都会《とかい》を捨《す》てることは出来ぬ。儂は一切が好きである。儂が住居《すまい》は武蔵野の一隅にある。平生読んだり書いたりする廊下の窓からは甲斐《かい》東部の山脈が正面に見える。三年前建てた書院からは、東京の煙が望まれる。一方に山の雪を望み、一方に都の煙を眺むる儂の住居は、即ち都の味と田舎の趣とを両手に握らんとする儂の立場《たちば》と慾望を示して居るとも云える。斯慾望が何処まで衝突なく遂《と》げ得らるゝかは、疑問である。此両趣味の結婚は何ものを生《う》み出したか、若くは生み出すか、其れも疑問である。唯儂一個人としては、六年の田舎住居《いなかずまい》の後、いさゝか獲《え》たものは、土に対する執着の意味をやゝ解《かい》しはじめた事である。儂は他郷から此村に入って、唯六年を過ごしたに過ぎないが、それでも吾《わ》が樹木《じゅもく》を植え、吾が種を蒔《ま》き、我が家を建て、吾が汗を滴《た》らし、吾《わが》不浄《ふじょう》を培《つちか》い、而
前へ
次へ
全342ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 蘆花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング