繋《つな》いで置いたら、頸《くび》に縄きれをぶらさげながら、一週間ぶりに舞《ま》い戻《もど》った。隣字の人に頼んで、二子在の犬好きの家へ世話してもらうつもりで、一先ず其家に繋いで置いてもらうと、長い鎖《くさり》を引きずりながら帰って来た。詮方《せんかた》なくて今は其まゝにしてある。余が口笛《くちぶえ》を吹《ふ》いたら、彼女《かのじょ》はふっと見上げたが、やがて尾を垂《た》れて、小さな足跡《あしあと》を深く雪に残しつゝ、裏の方へ往って了うた。
雪はまだしきりに降って居る。
余は思うともなく今年一年の出来事をさま/″\と思い浮《うか》べた。身の上、家の上、村の上、自国の上、外国の上、さま/″\と事多い一年であった。種々の形《かたち》で世界の各所《かくしょ》に現《あら》わるゝ、人心《じんしん》の昂奮《こうふん》、人間の動揺が、眼《め》まぐろしくあらためて余の心の眼に映《うつ》った。
何処《どこ》に落着く世の中であろう?
余は久しく久しく何を見るともなく雪の中を見つめる。
大正元年暮の二十九日は蒼白《あおじろ》う暮れて行く。
[#ここから3字下げ]
おのがじし舞ひ狂ひつるあともなし
世は一色《ひといろ》の雪の夕暮
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ](大正元年 十二月二十九日)
[#改丁]
読者に
(一)
読者諸君。
「みみずのたはこと」の出版は、大正二年の三月でした。それから今大正十二年十二月まで何時しか十年余の月日が立ちました。此十年余の限りない波瀾にも、最近の大震災にも幸に恙《つつが》なく、ここに「みみずのたはこと」の巻末に於て、粕谷の書斎から遙に諸君と相見るを得るは、感謝の至です。
まことに大正の御代になっての斯十余年は、私共に、諸君に、日本に、はた世界にとって、極めて多事多難な十余年でありました。
大正元年暮の二十九日、雪の黄昏を眺めた私の心のやるせない淋しさ――それは世界を掩うて近寄り来る死の蔭の冷《ひい》やりとした歩《あゆ》みをわれ知らず感じたのでした。大正二年「みみずのたはこと」の出版をさながらのきっかけに、日一日、歩一歩、私は死に近づいて来ました。死にたくない。※[#「しんにょう+官」、第3水準1−92−56]《のが》れたい、私は随分もがきました。一家を挙げて秋の三月《みつき》を九州から南満洲、朝鮮、山陰、京畿《けいき》とぶらついた旅行は、近づく運命を躱《かわ》そうとてののたうち廻りでした。然し盃《さかずき》は否応《いやおう》なしに飲まされます。私は阿容※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]《おめおめ》とまた粕谷の旧巣《ふるす》に帰って来ました。
大正三年が来ました。「死」の年です。五月に私の父が九十三歳で死にました。私は父を捨て、「みみずのたはこと」の看板娘であった鶴子を其父母に返えし、門を閉じ、人を謝して、生きながら墓の中に入りました。八月に独逸を相手の世界戦が始まります。世界は死の蔭に入りました。
其十二月に私は自伝小説「黒い眼と茶色の目」を出しました。私にとって自殺の第一刀です。同時に「生」への安全弁でもありました。然し要するに自他を傷つくる爆弾であった事も諍《あらそ》えません。早速妻が瀕死の大病に罹《かか》り、四ヶ月を病院に送りました。生命を取りとめたが不思議です。
世界が血みどろになって戦う大正四年、大正五年、大正六年、私は閉門生活をつづけて居ました。懊悩《おうのう》は気も狂うばかりです。傍《かたわら》に妻あり踏むに土あって、私は狂わず死なざるを得ました。私は真面目に畑仕事をしました。然し文筆の人に鍬のみでは足りません。大正六年の三月「死の蔭に」を出しました。大正二年の秋の逃避旅行の極めて皮相な叙述です。
すべてには限《きり》があります。「死の蔭に」が出で、父の三年の喪《も》が果てる頃から、私はそろ/\死の蔭を出ました。大正七年は私共夫妻の銀婚です。其四月、母の九十の誕辰に私は「新春」を出しました。生の福音、復活の凱歌です。春に「新春」が出て、秋の十一月十一日に、さしも五年に渉《わた》って世界を荒らした大戦がばったり止んだのであります。
世界が死の蔭を出て、大戦後始末の会議が※[#濁点付き片仮名「ヱ」、1−7−84]ルサイユに開かれた大正八年一月私共夫妻は粕谷を出でて世界一周の旅に上りました。旅費の前半は「新春」の読者、後半は後《あと》で出た「日本から日本へ」の読者から出たのであります。新嘉坡《シンガポオル》まで往った時、私の母が東京で九十一歳で死にました。父を捨てた子は、母の死に目にも会いません。私共は尚《なお》西へ西へと旅をつづけ、何時しか世界を一周して、大正九年の三月日本に帰って来ました。
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