、捨てられぬ作である。
 縁の籐椅子《とういす》に腰かけて右のドラマを読んで居ると、トルストイ翁の顔やら家族の人々の顔やらが眼の前に浮ぶ。今日《きょう》は七月一日、丁度六年前ヤスナヤ、ポリヤナに居た頃である。曇《くも》ったり晴《は》れたりする空《そら》、上《のぼ》ったり下ったりする丘《おか》、緑が茂って、小麦が熟《う》れて、余の今の周囲も其時に似《に》て居る。
 最早はっきりとは文字の見えぬ本を膝《ひざ》にのせて、先刻《さっき》から音もなく降って居た繊《ほそ》い雨の其まゝ融《と》けた蒼《あお》い夕靄《ゆうもや》を眺めて居ると、忽ち向うの蒼い杉の森から、
「リン、――リン、リン」
 白銀《はくぎん》の鈴《りん》を振る様な鋭い蜩《ひぐらし》の音が響いた。
[#地から3字上げ](明治四十五年 七月一日)
[#改ページ]

     夏の一日

 眼をさますと、真裸《まっぱだか》で寝て居る。外では最早|蜩《ひぐらし》が鳴いて居る。蚊帳外《かやそと》の暗い隅では、蚊が※[#「口+云」、第3水準1−14−87]々《うんうん》唸《うな》って居る。刎《は》ね起きて時計を見れば、五時に十分前。戸をくると、櫟林《くぬぎばやし》から朝日の金光線が射《さ》して居る。
 顔を洗うと、真裸で芝生に飛び下り、磨《と》ぎ立ての鎌《かま》で芝を苅りはじめる。雨の様な露だ。草苅《くさかり》は露の間《ま》の事。ざくり、ざくり、ザク、ザク。面白い様に苅れる。
 足を洗《あら》って、体《からだ》を拭いて、上ると八時。近来朝飯ぬきで、十時に牛乳《ちち》一合。
 今日は少し日課を書いた。
 朝餐《あさめし》の午餐は赤の飯だ。今日は細君の誕生日《たんじょうび》である。昨日何か手に隠して持って来たのを、開けて見たら白髪《しらが》が三本だった。彼女にも白髪が生《は》えたのだ。余は十四五から五本や十本の白髪はあった。兎に角部分的には最早《もう》偕白髪《ともしらが》と云う域《いき》に達した訳である。
 主婦《しゅふ》の誕生日だが、赤の飯に豆腐汁で、鰯《いわし》の一尾も無い。午前に果樹園《かじゅえん》を歩いて居たら、水蜜の早生《わせ》が五つばかり熟《じゅく》して居るのを見つけた。取りあえず午餐の食卓に上《のぼ》す。時にとっての好いお祝。
 今日は夏になって以来の暑《あつ》い日だ。午後は到頭室内九十度に上った。千歳村の生活をはじめて六年、九十度は今日が初である。戸と云う戸、障子と云う障子、窓と云う窓を残らず開放《あけはな》し、母屋《おもや》は仕切の唐紙《からかみ》障子《しょうじ》を一切取払うて、六畳二室板の間ぶっ通しの一間《ひとま》にした。飲むと汗《あせ》になると知りつゝ、たまりかねて冷《つめ》たい麦湯を飲む、サイダアを飲む。飲む片端《かたはし》からぼろ/\汗になって流れる。犬のデカもピンも、猫のトラも、樫の木蔭《こかげ》にぐったり寝て居た。
 あまり暑いから髪《かみ》でも苅ろうかと、座敷の縁に胡踞《あぐら》かく。バリカンが駄目なので、剪《はさみ》で細君が三分に苅ってくれた。今朝苅った芝が、最早枯れて白く乾《かわ》いて居る。北海道の牧場の様ですね、と細君が曰う。主人《あるじ》は芝を苅り、妻は主人の髪を苅る。芝の心は知らぬが主人は好い心地になった。
 建具《たてぐ》取払って食堂が濶《ひろ》くなった上に、風が立ったので、晩餐の卓《たく》は涼《すず》しかった。飯を食いながら、唯《と》見《み》ると、夕日の残る葭簀《よしず》の二枚屏風に南天の黒い影が躍《おど》って居る。而《そう》して其葭簀を透《す》かして大きな芭蕉の緑の葉がはた/\揺《うご》いて居る。
 自動車の響《おと》が青山街道にしたかと思うと、東京のN君外三名が甲斐《かい》の山の写真を撮《と》りに来たのだ。時刻が晩《おそ》くて駄目だったが、無理に二枚程撮って帰った。
 日が傾《かたむ》くとソヨ吹きそめた南風《みなみ》が、夜に入ると共に水の流るゝ如く吹き入るので、ランプをつけて置くのが骨だった。母屋の縁に胡座《あぐら》かいて、身も魂も空虚《から》にして涼風《すずかぜ》に浸《ひた》る。ランプの光射《あかりさ》す程は、樫《かし》、ふさもじ、小さな孟宗竹《もうそうちく》の葉が一々緑玉に光って、ヒラ/\キラ/\躍って居る。光の及ばぬあたりは、墨画《すみえ》にかいた様な黒い葉が、千も万も躍って居る。木立《こだち》の間には白けた夏の夜の空《そら》が流れ、其処《そこ》にはまた数限も無い星がチラ/\瞬《またた》いて居る。庭の暗の方から、甘《あま》い香や強い刺戟性《しげきせい》の香が弗々《ふつふつ》と流れて来る。山梔子《くちなし》、山百合の香である。「夏の夜や蚊を疵《きず》にして五百両」これで蚊さえ居なかったら。
 今日誤ってもいだ烏瓜《からすうり》を刳《く
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