が雹に降られて天に向って拳《こぶし》をふり上げ、「何ちゅう事《こつ》をしくさるか」と怒鳴《どな》るところがあるが、無理はない。此辺では「雹乱《ひょうらん》」と云って、雹は戦争《いくさ》よりも恐れられる。そこで雹祭《ひょうまつり》をする。榛名様《はるなさん》に願をかける。然し榛名様も、鎮守の八幡も、如何《どう》ともしかね玉う場合がある。出水の患《うれい》が無い此村も、雹の賜物《たまもの》は折々受けねばならぬ。村の天に納める租税《そぜい》である。

       六

 六月になった。麦秋《むぎあき》である。「富士一つ埋《うづ》み残して青葉《あをば》かな」其青葉の青闇《あおぐら》い間々を、熟《う》れた麦が一面日の出《で》の様に明るくする。陽暦六月は「農攻《のうこう》五月《ごげつ》急於弦《げんよりもきゅうなり》」と云う農家の五月だ。農家の戦争で最劇戦《さいげきせん》は六月である。六月初旬は、小学校も臨時|農繁休《のうはんきゅう》をする。猫の手でも使いたい時だ。子供一人、ドウして中々馬鹿にはならぬ。初旬には最早《もう》蚕《かいこ》が上るのだ。中旬《ちゅうじゅん》には大麦、下旬には小麦を苅《か》るのだ。
 最早|梅雨《つゆ》に入って、じめ/\した日がつゞく。簑笠《みのかさ》で田も植えねばならぬ。畑勝《はたが》ちの村では、田植は一仕事、「植田《うえだ》をしまうとさば/\するね」と皆が云う。雨間《あまま》を見ては、苅り残りの麦も苅らねばならぬ。苅りおくれると、畑の麦が立ったまゝに粒から芽をふく。油断を見すまして作物《さくもつ》其方退《そっちの》けに増長して来た草もとらねばならぬ。甘藷《さつま》の蔓《つる》もかえさねばならぬ。陸稲《おかぼ》や黍《きび》、稗《ひえ》、大豆の中耕《ちゅうこう》もしなければならぬ。二番茶《にばんちゃ》も摘《つ》まねばならぬ。お屋敷に叱《しか》られるので、東京の下肥《しもごえ》ひきにも行かねばならぬ。時も時とて飯料《はんりょう》の麦をきらしたので、水車に持て行って一晩《ひとばん》寝《ね》ずの番をして搗《つ》いて来ねばならぬ。最早甲州の繭買《まゆかい》が甲州街道に入り込んだ。今年は値《ね》が好くて、川端《かわばた》の岩さん家では、四円十五銭に売ったと云う噂《うわさ》が立つ。隣村の浜田さんも繭買をはじめた。工女の四五人入れて足踏《あしぶみ》器械《きかい》で製糸をやる仙ちゃん、長さんも、即座師《そくざし》の鑑札を受けて繭買をはじめた。自家《うち》のお春っ子お兼っ子に一貫目《いっかんめ》何銭の掻《か》き賃をくれて、大急ぎで掻いた繭を車に積んで、重い車を引張って此処其処|相場《そうば》を聞き合わせ、一銭でも高い買手をやっと見つけて、一切合切《いっさいがっさい》屑繭《くずまゆ》まで売ってのけて、手取《てどり》が四十九円と二十五銭。夜の目も寝ずに五十両たらずかと思うても、矢張《やはり》まとまった金だ。持て帰って、古箪笥《ふるだんす》の奥にしまって茶一ぱい飲むと直ぐ畑に出なければならぬ。
 空ではまだ雲雀が根気よく鳴いて居る。村の木立の中では、何時の間にか栗の花が咲いて居る。田圃の小川では、葭切《よしきり》が口やかましく終日《しゅうじつ》騒《さわ》いで居る。杜鵑《ほととぎす》が啼《な》いて行く夜もある。梟《ふくろう》が鳴く日もある。水鶏《くいな》がコト/\たゝく宵《よい》もある。螢が出る。蝉《せみ》が鳴く。蛙が鳴く。蚊が出る。ブヨが出る。蠅が真黒《まっくろ》にたかる。蚤《のみ》が跋扈《ばっこ》する。カナブン、瓜蠅《うりばえ》、テントウ虫、野菜につく虫は限もない。皆|生命《いのち》だ。皆生きねばならぬのだ。到底《どうせ》取りきれる事ではないが、うっちゃって置けば野菜が全滅になる、取れるだけは取らねばならぬ。此方《こっち》も生きねばならぬ人間である。手が足りぬ。手が足りぬ。自家の人数《にんず》ではやりきれぬ。果ては甲州街道から地所にはなれた百姓を雇《やと》うて、一反何程の請負《うけおい》で、田も植えさす、麦も苅らす。それでもまだやり切れぬ。墓地の骸骨《がいこつ》でも引張り出して来て使いたい此頃には、死人か大病人の外は手をあけて居る者は無い。盲目《めくら》の婆さんでも、手さぐりで茶位《ちゃぐらい》は沸《わ》かす。豌豆《えんどう》や隠元《いんげん》は畑に数珠《じゅず》生《な》りでも、もいで煮《に》て食う暇《ひま》は無い。如才《じょさい》ない東京場末の煮豆屋《にまめや》が鈴《りん》を鳴らして来る。飯の代りに黍《きび》の餅で済ます日もある。近い所は、起きぬけに朝飯前《あさめしまえ》の朝作り、遠い畑へはお春っ子が片手に大きな薬鑵《やかん》、片手に茶受の里芋か餅かを入れた風呂敷包を重そうに提《さ》げ、小さな体を歪《ゆが》めてお八《や》つを持て行く。
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