と伝える。「火事だよう」「火事だァよゥ」彼方《あち》此方《こち》で消防の若者が聞きつけ、家に帰って火事《かじ》袢纏《ばんてん》を着て、村の真中《まんなか》の火の番小屋の錠《じょう》をあけて消防道具を持出し、わッしょい/\駈《か》けつける頃は、大概の火事は灰《はい》になって居る。人家が独立して周囲に立木《たちき》がある為に、人家《じんか》櫛比《しっぴ》の街道筋を除いては、村の火事は滅多《めった》に大火にはならぬ。然し火の粉《こ》一つ飛んだらば、必焼けるにきまって居る。東京は火事があぶねえから、好い着物は預けとけや、と云って、東京の息子《むすこ》の家の目ぼしい着物を悉皆《すっかり》預って丸焼にした家もある。
 梅は中々二月には咲かぬ。尤も南をうけた崖下《がけした》の暖かい隈《くま》なぞには、ドウやらすると菫《すみれ》の一輪、紫に笑んで居ることもあるが、二月は中々寒い。下旬になると、雲雀《ひばり》が鳴きはじめる。チ、チ、チ、ドウやら雲雀が鳴いた様だと思うと、翌日は聞こえず、又の日いと明瞭に鳴き出す。あゝ雲雀が鳴いて居る。例令《たとえ》遠山《とおやま》は雪であろうとも、武蔵野の霜や氷は厚かろうとも、落葉木《らくようぼく》は皆|裸《はだか》で松の緑《みどり》は黄ばみ杉の緑は鳶色《とびいろ》に焦《こ》げて居ようとも、秩父《ちちぶ》颪《おろし》は寒かろうとも、雲雀が鳴いて居る。冴《さ》えかえる初春の空に白光《しろびか》りする羽たゝきして雲雀が鳴いて居る。春の驩喜《よろこび》は聞く人の心に涌《わ》いて来る。雲雀は麦の伶人《れいじん》である。雲雀の歌から武蔵野の春は立つのだ。

       三

 武蔵野に春は来た。暖い日は、甲州の山が雪ながらほのかに霞《かす》む。庭の梅の雪とこぼるゝ辺《あたり》に耳珍しくも藪鶯《やぶうぐいす》の初音が響く。然しまだ冴《さ》え返える日が多い。三月もまだ中々寒い月である。初午《はつうま》には輪番《りんばん》に稲荷講の馳走《ちそう》。各自《てんで》に米が五合に銭十五銭宛持寄って、飲んだり食ったり驩《かん》を尽すのだ。まだ/\と云うて居る内に、そろ/\畑《はた》の用が出て来る。落葉《おちば》掻《か》き寄せて、甘藷《さつま》や南瓜《とうなす》胡瓜《きゅうり》の温床《とこ》の仕度もせねばならぬ。馬鈴薯《じゃがいも》も植えねばならぬ。
 彼岸前《ひがんまえ》の農家の一大事は、奉公男女の出代《でがわ》りである。田舎も年々人手が尠《すく》なく、良い奉公人は引張り合《あい》だ。近くに東京と云う大渦《おおうず》がある。何処へ往っても直ぐ銭《ぜに》になる種々の工場があるので、男も女も愚図※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]《ぐずぐず》云われると直ぐぷいと出て往って了う。寺本さんの作代《さくだい》は今年も勤続《つづく》と云うが、盆暮の仕着せで九十円、彼様《あん》な好い作代なら廉《やす》いもンだ、と皆が羨む。亥太郎さんの末の子は今年十二で、下田さんの子守《こもり》に月五十銭で雇《やと》われて行く。下唇《したくちびる》の厚い久《ひさ》さんは、本家で仕事の暇を、大尽の伊三郎さん処《とこ》で、月十日のきめで二十五円。石山さんが隣村の葬式に往って居ると娘が駈《か》けて来て、作代が逃げ出すと云うので、石山さんは遽《あわ》てゝ葬式の場から尻《しり》引《ひ》っからげて作代引とめに走って行く。勘さんの嗣子《あととり》の作さんは草鞋ばきで女中を探してあるいて居る。些《ちと》好《よ》さそうな養蚕《かいこ》傭《やとい》の女なぞは、去年の内に相談がきまってしまう。メレンスの半襟《はんえり》一かけ、足袋の一足、窃《そっ》と他《ひと》の女中の袂《たもと》にしのばせて、来年の餌《えさ》にする家もある。其等の出代りも済んで、やれ一安心と息をつけば、最早彼岸だ。
 線香、花、水桶なぞ持った墓参《はかまいり》が続々やって来る。丸髷《まるまげ》や紋付は東京から墓参に来たのだ。寂《さび》しい墓場にも人声《ひとごえ》がする。線香の煙が上る。沈丁花《ちんちょうげ》や赤椿が、竹筒《たけづつ》に插《さ》される。新しい卒塔婆《そとば》が立つ。緋《ひ》の袈裟《けさ》かけた坊さんが畑の向うを通る。中日は村の路普請《みちぶしん》。遊び半分若者総出で、道側《みちばた》にさし出た木の枝を伐り払ったり、些《ちっと》ばかりの芝土を路の真中《まんなか》に抛《ほう》り出したり、路壊《みちこわ》しか路普請か分からぬ。

       四

 四月になる。愈《いよいよ》春だ。村の三月、三日には雛《ひな》を飾る家もある。菱餅《ひしもち》草餅《くさもち》は、何家でも出来る。小学校の新学年。つい去年まで碌《ろく》に口も利《き》けなかった近所の喜左坊《きさぼう》が、兵隊帽子に新らしいカバン
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