き》に居た男はうたれて即死、而して艫《とも》に居た男は無事だった、と云う事を報じた。
「一人はとられ、一人は残さるべし」の句がまた彼の頭に浮んだ。
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     月見草

 村の人になった年《とし》、玉川の磧《かわら》からぬいて来た一本の月見草が、今はぬいて捨てる程に殖《ふ》えた。此頃は十数株、少《すくな》くも七八十輪|宵毎《よいごと》に咲いて、黄昏《たそがれ》の庭に月が落ちたかと疑われる。
 月見草は人好きのする花では無い。殊《こと》に日間《ひるま》は昨夜の花が赭《あか》く凋萎《しお》たれて、如何にも思切りわるくだらりと幹《みき》に付いた態《ざま》は、見られたものではない。然し墨染《すみぞめ》の夕に咲いて、尼《あま》の様に冷たく澄んだ色の黄、其《その》香《か》も幽に冷たくて、夏の夕にふさわしい。花弁《はなびら》の一つずつほぐれてぱっと開く音も聴くに面白い。独物思うそゞろあるきの黄昏に、唯一つ黙って咲いて居る此花と、はからず眼を見合わす時、誰か心跳《こころおど》らずに居られようぞ。月見草も亦心浅からぬ花である。
 八九歳の弱い男の子が、ある城下の郊外の家《うち》から、川添いの砂道を小一里もある小学校に通う。途中、一方が古来《こらい》の死刑場《しおきば》、一方が墓地の其|中間《ちゅうかん》を通らねばならぬ処があった。死刑場には、不用になった黒く塗った絞台や、今も乞食が住む非人小屋があって、夕方は覚束ない火が小屋にともれ、一方の古墳《こふん》新墳《しんふん》累々《るいるい》と立並ぶ墓場の砂地には、初夏の頃から沢山月見草が咲いた。日間《ひるま》通る時、彼は毎《つね》に赭くうな垂《だ》れた昨宵《ゆうべ》の花の死骸を見た。学校の帰りが晩くなると、彼は薄暗い墓場の石塔や土饅頭の蔭から黄色い眼をあいて彼を覗《のぞ》く花を見た。斯《か》くて月見草は、彼にとって早く死の花であった。
 其墓場の一端には、彼が甥《おい》の墓もあった。甥と云っても一つ違い、五つ六つの叔父《おじ》甥は常に共に遊んだ。ある時叔父は筆の軸《じく》を甥に与えて、犬の如く啣《くわ》えて振れと命じた。従順な子は二度三度云わるゝまゝに振った。叔父はまた振れと迫った。甥はもういやだと頭を掉《ふ》った。憎さげに甥を睨《にら》んだ叔父は、其筆の軸で甥の頬《ほお》をぐっと突いた。甥は声を立てゝ泣いた。其甥は腹膜炎
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