なくてはならぬ。彼は是非なく死を覚期した。彼は生命が惜しくなった。今此処から三里|隔《へだ》てゝ居る家の妻の顔が歴々と彼の眼に見えた。彼は電光の如く自己《じこ》の生涯を省みた。其れは美《うつく》しくない半生であった。妻に対する負債《ふさい》の数々も、緋の文字《もじ》をもて書いた様に顕れた。彼は此まゝ雷にうたれて死んだあとに残る者の運命を考えた。「一人《ひとり》はとられ一人は残さるべし」と云う聖書の恐ろしい宣告が彼の頭《あたま》に閃《ひらめ》いた。彼は反抗した。然し其反抗の無益なるを知った。雷はます/\劇《はげ》しく鳴った。最早《もう》今度《こんど》は落ちた、と彼は毎々《たびたび》観念した。而して彼の心は却て落ついた。彼の心は一種自己に対し、妻に対し、一切の生類《しょうるい》に対する憐愍《あわれ》に満された。彼の眼鏡《めがね》は雨の故ならずして曇《くも》った。斯くして夕暮の街道二里を、彼は雷と共に歩いた。
 調布の町に入る頃は、雷は彼の頭上を過ぎて、東京の方に鳴った。雨も小降《こぶ》りになり、やがて止んだ。暮れたと思うた日は、生白《なまじろ》い夕明《ゆうあかり》になった。調布の町では、道の真中《まんなか》に五六人立って何かガヤ/\云いながら地《ち》を見て居る。雷が落ちたあとであろう、煙の様なものがまだ地から立って居る。戸口に立ったかみさんが、向うのかみさんを呼びかけ、
「洗濯物取りに出《で》りゃあの雷だね、わたしゃ薪小屋《まきごや》に逃げ込んだきり、出よう/\と思ったけンど、如何しても出られなかったゞよ」
と云って居る。
 雷雨が過ぎて、最早|大丈夫《だいじょうぶ》と思うと、彼は急に劇しい疲労を覚えた。濡《ぬ》れた洋服の冷たさと重たさが身にこたえる。足が痛む。腹はすく。彼は重たい/\足を曳きずって、一足ずつ歩いた。滝坂近くなる頃は、永い/\夏の日もとっぶり暮れて了うた。雨は止んだが、東北の空ではまだ時々ぱッ/\と稲妻が火花を散らして居る。
 家へ六七丁の辺《へん》まで辿《たど》り着くと、白いものが立って居る。それは妻《つま》であった。家をあけ、犬を連れて、迎に出て居るのであった。あまり晩《おそ》いので屹度先刻の雷におうたれなすったと思いました、と云う。

           *

 翌々日の新聞は、彼が其日行った玉川《たまがわ》の少し下流で、雷が小舟に落ち、舳《へさ
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