じ》をひいてくれた下曾根さんは、十七年間会堂|裏《うら》に自炊《じすい》生活《せいかつ》をつづけました。下曾根さんは独身で、身よりも少なく、淋しい人でした。寄る年と共にますます耳は遠くなり、貧乏教会の牧師で自身の貯金も使い果した後は、随分《ずいぶん》惨《みじめ》な生活でした。私は個人的に少許《すこし》の出金を気まぐれに続けたばかりで、会堂には一切手も足も出しませんでした。下曾根さんは貧しい羊の群を忠実に牧して、よく職務を尽しました。砲術家の出だけに明晰《めいせき》な頭脳の持主でしたが、趣味があって、書道を嗜《たしな》み、俳句を作り、水彩画をかいたり、園芸を楽しんだり、色々に趣味をもって自ら慰めて居りました。乏《とぼ》しい中から村の出金、教会としての中央への義務寄金も心ばかりはしました。亡《な》くなる前には、自身の履歴、形見分けの目録、後の処分の事まで明細に書き遺《のこ》し、洗《あら》うが如き貧しさの中から葬式|万端《ばんたん》の費用を払うて余剰《あまり》ある程の貯蓄をして置いた事が後で分かりました。信仰ある、而して流石《さすが》に武士の子らしい嗜《たしなみ》です。下曾根さんは私共の東隣《ひがしどなり》の墓地に葬られました。其葬式には最初私共に千歳村を教えた「先輩の牧師」も東京から来て、「下曾根信守之墓」「我父の家には住家多し」と云う墓標の文字も其人の筆で書かれました。
其葬式には、塚戸小学校の前校長H君も来て居ました。Hさんは越後の人、上野《うえの》の音楽学校の出で、漢文が得意です。明治二十九年に千歳村に来て小学校長となり、在職二十五年の長きに及びました。村人として私共より十二年も前です。私共夫妻が最初千歳村に来て、ある小川の流れに菜《な》を洗う女の人に道問うた其れはH夫人であったそうです。私共が外遊から帰って来ると、H君は二十五年の小学校奉仕を罷《や》めて、六十近く新に進出の路を求めねばならぬ苦境に居ました。其後帝大に仕事を見出し、日々村から通うて居ましたが、このたび都合により吉祥寺の長男の家と一つになると謂《い》うて告別に来たのは、つい此新甞祭の当日でした。地下に他郷に古い顔馴染《かおなじみ》が追々遠くなるのは淋しいものです。
村の名物が段々無くなります。本文の「葬式」に出た粕谷で唯一人の丁髷《ちょんまげ》の佐平《さへい》爺《じい》さんも亡くなり、好人の幸さ
前へ
次へ
全342ページ中312ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 健次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング