てくれた。
 斯くて千歳村《ちとせむら》の一年は、馬車馬の走る様《よう》に、さっさと過ぎた。今更《いまさら》の様だが、愉快は努力に、生命は希望にある。幸福は心の貧しきにある。感謝は物の乏しきにある。例令《たとえ》此《この》創業《そうぎょう》の一年が、稚気乃至多少の衒気《げんき》を帯びた浅瀬の波の深い意味もない空躁《からさわ》ぎの一年であったとするも、彼はなお彼を此生活に導いた大能の手を感謝せずには居られぬ。
 彼は生年四十にして初めて大地に脚を立てゝ人間の生活をなし始めたのである。
[#改丁]

   草葉のささやき

     二百円

 樫《かし》の実が一つぽとりと落ちた。其|幽《かすか》な響が消えぬうちに、突《つ》と入って縁先に立った者がある。小鼻《こばな》に疵痕《きずあと》の白く光った三十未満の男。駒下駄に縞物《しまもの》ずくめの小商人《こあきんど》と云う服装《なり》。眉から眼にかけて、夕立《ゆうだち》の空の様な真闇《まっくら》い顔をして居る。
「私《わたし》は是非一つ聞いていたゞきたい事があるンで」
と座に着くなり息をはずませて云った。
「私は妻《かない》に不幸な者でして……斯《こう》申上げると最早《もう》御分かりになりましょうが」
 最初は途切れ/\に、あとは次第に調子づいて、盈《み》ちた心を傾くる様に彼は熱心に話した。
 彼は埼玉《さいたま》の者、養子であった。繭《まゆ》商法に失敗して、養家の身代を殆《ほと》んど耗《す》ってしまい、其恢復の為朝鮮から安東県に渡って、材木をやった。こゝで妻子を呼び迎えて、暫《しばらく》暮らして居たが、思わしい事もないので、大連《だいれん》に移った。日露戦争の翌年の秋である。大連に来て好い仕事もなく、満人臭《まんざくさ》い裏町にころがって居る内に、子供を亡《な》くしてしまった。
「可愛いやつでした。五歳《いつつ》でした、女児《おんなのこ》でしたがね、其《そ》れはよく私になずいて居ました。国に居た頃でも、私が外から帰って来る、母や妻《かない》は無愛想でしても、女児《やつ》が阿爺《とうさん》、阿爺と歓迎して、帽子《ぼうし》をしまったり、其《そ》れはよくするのです。私も全《まった》く女児を亡くしてがっかりしてしまいました。病気は急性肺炎でしたがね、医者に駈けつけ頼むと、来ると云いながら到頭来ません。其内息を引きとってしまったンで
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