福である。仮令《たとい》其信仰の為に財産をなくして人の物笑《ものわらい》となり、政府の心配となるとも、信ずる者は幸福である。彼等の多くは無学である。彼等に教理を問うても、彼等は唯にこ/\と笑うて、立派な言葉で明かに答える事は出来ぬ。然し信仰を説く者必しも信仰を有《も》つ者でない。信ずる彼等は確《たしか》に其信仰に生きて居るのである。
 信仰と生活の一致は、容易で無い。何れの信仰でも雑多《ざった》な信者はある。世界の信者が其信仰を遺憾《いかん》なく実現したら、世界は夙《とう》に無事に苦んで居る筈《はず》だ。天理教徒にも色々ある。財産を天理様に捧《ささ》げてしまって、嬉々《きき》として労役者《ろうえきしゃ》の生活をして居る者もある。天理教で財産を耗《す》って、其|報償《むくい》を手あたり次第に徴集《ちょうしゅう》し、助けなき婆さんを窘《いじ》めて店賃《たなちん》をはたる者もある。病気の為に信心して幸に痊《い》ゆれば平気で暴利を貪《むさぼ》って居る者もある。信徒の労力を吸って肥《こ》えて居る教師もある。然し斯《この》せち鹹《から》い世の中に、人知れず美しい心の花を咲かす者も随処《ずいしょ》にある。此春妻が三軒茶屋《さんげんぢゃや》から帰るとて、車はなしひょろ/\する程荷物を提《さ》げて歩《ある》いて居ると、畑に働《はたら》いて居た娘が、今しも小学校の卒業式から優等の褒美をもろうて帰る少年を追かけて呼びとめてくれたので、其少年に荷物を分けて持ってもろうて帰って来た。親切な人々と思うて聞いて見れば、それは天理教信者であった。
 人が平気に踏《ふ》みしだく道辺《みちべ》の無名草《ななしぐさ》の其小さな花にも、自然の大活力は現われる。天理教祖は日本の思いがけない水村|山郭《さんかく》の此処其処に人知れず生れて居るのである。

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 斯様な事を思うて居る内に、御神楽歌《おかぐらうた》一巻を唱《とな》え囃《はや》し踊る神前の活動はやんで、やがて一脚の椅子テーブルが正面に据《す》えられ、洋服を着た若い紳士が着席し、木下藤吉郎秀吉が信長の草履取《ぞうりとり》となって草履を懐《ふところ》に入れて温《あたた》めた事をきい/\声で演説した。其れが果てると、余は折詰《おりづめ》一個をもらい、正宗《まさむね》一|合瓶《ごうびん》は辞して、参拾銭|寄進《きしん》して帰った。

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