わるゝを心《しん》から嫌って、目下場内の農家がまだ三四戸に過ぎぬのをいたく慙じ、各十町を所有する中等自作農をせめて百戸は場内に入るべく切望して居る。
 午後アイヌが来たと呼ばれるので、台所に出て見る。アツシを着た四十左右の眼の鋭い黒髯《こくぜん》蓬々たる男が腰かけて居る。名はヱンデコ、翁の施療《せりょう》を受けに利別《としべつ》から来た患者の一人だ。此馬鹿野郎、何故《なぜ》もっと早く来ぬかと翁が叱る。アイヌはキマリ悪るそうに笑って居る。着物をぬいで御客様に毛だらけの膚《はだ》を見せろ、と翁が云う。体《からだ》が臭《くさ》いからとモジ/\するのを無理やりに帯解かせる。上半身が露《あら》われた。正に熊だ。腹毛《はらげ》胸毛《むなげ》はものかは、背の真中まで二寸ばかりの真黒な熊毛がもじゃ/\渦《うず》まいて居る。余も人並はずれて毛深い方だが、此アイヌに比べては、中々足下にも寄れぬ。熟々《つくづく》感嘆して見惚《みと》れる。翁は丁寧に診察を終って、白や紫沢山の薬瓶《やくびん》が並んだ次の間に調剤《ちょうざい》に入った。
 河西支庁の測量技手が人夫を連れて宿泊に来たので、余等は翁の隣室の六畳に移る。不図硝子窓から見ると、庭の楢の切株に綺麗《きれい》な縞栗鼠《しまりす》が来て悠々と遊んで居る。開けたと云っても、まだ/\山の中だ。
 四時過ぎになると、翁の部屋で謡がはじまった。「今を初の旅衣――」ポンと鼓が鳴る。高砂だ。謡も鼓もあまり上手とも思われぬが、毎日午後の四時に粥《かゆ》二椀を食って、然る後高砂一番を謡い、日が暮るゝと灌水《かんすい》して床に入るのが、翁の常例だそうな。
 夕飯から余等も台所の板敷で食わしてもらう。食後台所の大きな暖炉を囲んで、余作君片山君夫婦と話す。余作君は父翁の業を嗣いで医者となり、日露戦後|哈爾賓《ハルピン》で開業して居たが、此頃は牧場分担の為め呼ばれて父翁の許に帰って居る。片山君は紀州の人、もと北海道鉄道に奉職し、後関家に入って牧場の創業に当り、約十年斗満の山中に努力して、まだ東京の電車も知らぬと笑って居る。夫妻に子供が無い。少し痘痕《あばた》ある鳳眼にして長面の片山君は、銭函《ぜにばこ》の海岸で崖崩れの為死んだ愛犬の皮を胴着にしたのを被て、手細工らしい小箱から煙草をつまみ出しては長い煙管でふかしつゝ、悠然とストーブの側に胡踞《あぐら》かき、関翁が
前へ 次へ
全342ページ中190ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 健次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング