t is not mere life, but a good life that we court”と。仮令《たとい》馨子凱歌の中に光栄の桂冠《けいかん》戴《いただ》くを得ざりしにせよ、彼女の生はその畢生《ひっせい》の高貴なる焔《ほのお》のあらん限を尽して戦い、戦の途上戦い死せる光栄ある戦死者の生也。此の事、弟をして敬虔《けいけん》馨子の死の前にぬかずき、無限のインスピレーションを茲《ここ》に汲《く》ましむ。
二月十八日[#地から3字上げ]勝郎
九
五月の初、お馨さんが髪と骨になって日本に帰って来た。お馨さんのカタミを連れ帰ったのは、日本に帰化した米国の女《おんな》宣教師《せんきょうし》で、彼女は横須賀に永住して海軍々人の間に伝道し、葛城も久しく世話になって「母《マザー》」と呼んで居た人で、お馨さんの病死の時は折よく紐育《ニューヨーク》に居合わせ、始終万事の世話をしたのであった。
五月の四日、粕谷草堂の夫妻は鶴子を連れて、お馨さんの郷里《きょうり》に於ける葬式に列《つら》なるべく出かけた。両国の停車場で、彼等は古びた中折帽を阿弥陀《あみだ》にかぶった、咽喉《のど》に汚《よご》れた絹ハンカチを巻いた、金歯の光って眼の鋭《するど》い、癇癪持《かんしゃくもち》らしい顔をした外川先生と、強情《ごうじょう》できかぬ気らしい、日本人の彼等よりも却てヨリ好き日本語をつかうF女史に会《あ》った。
いつもの停車場で下りて、一同は車をつらねて彼《かの》丘《おか》の上の別荘に往って憩《いこ》い、それから本宅に往った。お馨さんの父者人、母者人と三度目の対面をした。十二畳|二間《ふたま》を打ぬいて、正面の床に遺髪と骨を納めた箱を安置し、昨日から来て葛城の姉さんが亡き義妹の為に作った花環《はなわ》をかざり、また藤なぞ生けてあった。お馨さんは自身の写真と云う写真を残らず破り棄てたそうで、目に見るべき其姿は残って居なかった。然しお馨さんによく肖《に》た妹達が五人まで居て、其幼な立から二十歳前後を眼の前に見る様であった。外川先生が司会し、お馨さんの学友がオルガンを弾いて、一同讃美歌の「やゝにうつり行く夕日かげの、残るわがいのち、いまか消ゆらん。御使《みつかい》よ、つばさをのべ、とこしえのふるさとに、つれゆきてよ、……」と云うのを歌うた。
粕谷の彼は起《た》ってお馨
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