朝、秋霧《あきぎり》の夕、此杉の森の梢《こずえ》がミレージの様に靄《もや》から浮いて出たり、棚引く煙を紗《しゃ》の帯の如く纏《まと》うて見たり、しぶく小雨に見る/\淡墨《うすずみ》の画になったり、梅雨には梟《ふくろう》の宿、晴れた夏には真先に蜩《ひぐらし》の家になったり、雪霽《ゆきばれ》には青空に劃然《くっきり》と聳《そび》ゆる玉樹の高い梢に百点千点黒い鴉《からす》をとまらして見たり、秋の入日の空《そら》樺色に※[#「日+熏」、第3水準1−85−42]《くん》ずる夕は、濃紺《のうこん》濃紫《のうし》の神秘な色を湛《たた》えて梢を距《さ》る五尺の空に唯一つ明星を煌《きら》めかしたり、彼の杉の森は彼に尽きざる趣味を与えてくれる。

       三

 彼の家の下なる浅い横長の谷は、畑が重《おも》で、田は少しであるが、此入江から本田圃に出ると、長江の流るゝ様に田が田に連なって居る。まだ北風の寒い頃、子を負った跣足《はだし》の女の子が、小目籠《めかい》と庖刀を持って、芹《せり》、嫁菜《よめな》、薺《なずな》、野蒜《のびる》、蓬《よもぎ》、蒲公英《たんぽぽ》なぞ摘みに来る。紫雲英《れんげそう》が咲く。蛙が鳴く。膝まで泥になって、巳之吉亥之作が田螺拾《たにしひろ》いに来る。簑笠《みのかさ》の田植は骨でも、見るには画である。螢には赤い火が夏の夜にちら/\するのは、子供が鰌突《どじょうつ》きして居るのである。一条の小川が品川堀の下を横に潜《くぐ》って、彼の家の下の谷を其南側に添うて東へ大田圃の方へと流れて居る。最初は女竹《めだけ》の藪の中を流れ、それから稀に葭《よし》を交えた萱《かや》の茂る土堤《どて》の中を流れる。夏は青々として眼がさめる。葭切《よしきり》、水鶏《くいな》の棲家《すみか》になる。螢が此処からふらりと出て来て、田面に乱れ、墓地を飛んでは人魂《ひとだま》を真似て、時々は彼が家の蚊帳《かや》の天井まで舞い込む。夏は翡翠《ひすい》の屏風《びょうぶ》に光琳《こうりん》の筆で描いた様に、青萱《あおかや》まじりに萱草《かんぞう》の赭《あか》い花が咲く。萱、葭の穂が薄紫に出ると、秋は此小川の堤《つつみ》に立つ。それから日に/\秋風《あきかぜ》をこゝに見せて、其薄紫の穂が白く、青々とした其葉が黄ばみ、更に白らむ頃は、漬菜《つけな》を洗う七ちゃんが舌鼓《したつづみ》うつ程、小川の水
前へ 次へ
全342ページ中128ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 健次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング