のち》気が変になり、帰国の船中太平洋の水屑《みくず》になられたと聞いて居る。デビス先生は男らしく其苦痛に耐え、宣教師|排斥《はいせき》が一の流行になった時代に処《しょ》して、恚《いか》らず乱れず始終一貫同志社にあって日本人の為に尽し、「吾生涯即吾遺言也」との訣辞《けつじ》を残して、先年終に米国に逝《ゆ》かれた。
 螢を見れば常に憶《おも》い出すデビス先生を、彼は今宵《こよい》も憶い出した。
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     夕立雲

 畑のものも、田のものも、林のものも、園のものも、虫も、牛馬も、犬猫も、人も、あらゆる生きものは皆雨を待ち焦《こが》れた。
「おしめりがなければ、街道は塵埃《ほこり》で歩けないようでございます」と甲州街道から毎日仕事に来るおかみが云った。
「これでおしめりさえあれば、本当に好いお盆《ぼん》ですがね」と内の婢《おんな》もこぼして居た。
 両三日来非常に蒸《む》す。東の方に雲が立つ日もあった。二声《ふたこえ》三声|雷鳴《らいめい》を聞くこともあった。
「いまに夕立が来る」
 斯く云って幾日か過ぎた。
 今日早夕飯を食って居ると、北から冷《ひ》やりと風が来た。眼を上げると果然《はたして》、北に一団|紺※[#「青+定」、第4水準2−91−94]色《インジゴーいろ》の雲が蹲踞《しゃが》んで居る。其紺※[#「青+定」、第4水準2−91−94]の雲を背《うしろ》に、こんもりした隣家の杉樫の木立、孟宗竹の藪《やぶ》などが生々《なまなま》しい緑を浮《う》かして居る。
「夕立が来るぞ」
 主人《あるじ》は大声に呼んで、手早く庭の乾し物、履物《はきもの》などを片づける。裏庭では、婢が駈けて来て洗濯物を取り入れた。
 やがて食卓から立って妻児が下りて来た頃は、北天の一隅に埋伏《まいふく》し居た彼濃い紺※[#「青+定」、第4水準2−91−94]色《インジゴーいろ》の雲が、倏忽《たちまち》の中にむら/\と湧《わ》き起《た》った。何の艶《つや》もない濁った煙色に化《な》り、見る/\天穹《てんきゅう》を這《は》い上り、大軍の散開する様に、東に、西に、天心に、ず、ずうと広がって来た。
 三人は芝生に立って、驚嘆《きょうたん》の眼を※[#「目+登」、第3水準1−88−91]《みは》って斯|夥《おびただ》しい雨雲の活動を見た。
 あな夥しの雲の勢や。黙示録に「天は巻物を捲《ま》く
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