眼は、嘸《さぞ》馬鹿らしく見えることであろう。実際馬鹿でなければ田舎住居は出来《でき》ぬ。人にすれずに悧巧になる道はないから。
 東京に出ては儂《わし》も立派な田舎者だが、田舎ではこれでもまだ中々ハイカラだ。儂の生活状態も大分変った。君が初めて来た頃の彼《あの》あばら家とは雲泥《うんでい》の相違だ。尤も何方が雲か泥《どろ》かは、其れは見る人の心次第だが、兎に角著しく変った。引越した年の秋、お麁末《そまつ》ながら浴室《ゆどの》や女中部屋を建増した。其れから中一年置いて、明治四十二年の春、八畳六畳のはなれの書院を建てた。明治四十三年の夏には、八畳四畳板の間つきの客室兼物置を、ズッと裏の方に建てた。明治四十四年の春には、二十五坪の書院を西の方に建てた。而して十一間と二間半の一間幅の廊下を以て、母屋と旧書院と新書院の間を連ねた。何れも茅葺、古い所で九十何年新しいのでも三十年からになる古家を買ったのだが、外見は随分立派で、村の者は粕谷御殿《かすやごてん》なぞ笑って居る。二三年ぶりに来て見た男が、悉皆《すっかり》別荘式になったと云うた。御本邸無しの別荘だが、実際別荘式になった。畑も増して、今は宅地耕地で二千|余坪《よつぼ》になった。以前は一切無門関、勝手《かって》に屋敷の中を通る小学校通いの子供の草履ばた/\で驚いて朝寝の眠《ねむり》をさましたもので、乞食《こじき》物貰《ものもら》い話客千客万来であったが、今は屋敷中ぐるりと竹の四ツ目籬《めがき》や、※[#「木+要」、第4水準2−15−13]《かなめ》、萩ドウダンの生牆《いけがき》をめぐらし、外から手をさし入れて明けられる様《よう》な形ばかりのものだが、大小《だいしょう》六つの門や枝折戸が出入口を固《かた》めて居る。己《われ》と籠を作って籠の中の鳥になって居るのが可笑《おか》しくもある。但花や果物を無暗に荒《あら》されたり、無遠慮なお客様に擾《わずら》わさるゝよりまだ可と思うて居る。個人でも国民でも斯様な所から「隔て」と云うものが出来、進んでは喧嘩《けんか》、訴訟、戦争なぞが生れるのであろう。
「後生願わん者は糂※[#「米+太」、第3水準1−89−82]甕《じんたがめ》一つも持つまじきもの」とは実際だ。物の所有は隔ての原《もと》で、物の執着《しゅうちゃく》は争の根《ね》である。儂も何時しか必要と云う名の下に門やら牆やら作って了う
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