知合で、新婦は初めて名を聞いた。媒妁なンか経験もなし、断ったが、是非との頼《たの》み、諾《よし》と面白半分引受けてしもうた。
明治四十年の九月|某日《それのひ》、媒妁夫妻は小婢《こおんな》と三人がかりで草屋の六畳二室を清《きよ》め、赤、白、鼠、婢の有《もの》まで借りて、あらん限りの毛布を敷きつめた。家のまわりも一《ひと》わたり掃《は》いた。隔ての唐紙《からかみ》を取払い、テーブルを一脚《いっきゃく》東向きに据《す》え、露ながら折って来た野の草花を花瓶《かへい》一ぱいに插《さ》した。女郎花《おみなえし》、地楡《われもこう》、水引、螢草、うつぼ草、黄碧紫紅《こうへきしこう》入り乱れて、あばら家も為に風情《ふぜい》を添えた。媒妁夫妻は心嬉しく、主人は綿絽《めんろ》の紋付羽織に木綿茶縞の袴、妻は紋服《もんぷく》は御所持なしで透綾《すきや》の縞の単衣にあらためて、徐《しずか》に新郎新婦の到着を待った。
正午過ぎ、村を騒がして八台の車が来た。新郎新婦及縁者の人々である。新婦は初めて見た。眼のきれの長い佳人《かじん》である。更衣室も無いので、仕切りの障子をしめ、二畳の板の間を半分《はんぶん》占《し》めた古長持の上に妻の鏡台《きょうだい》を置いた。鏡台の背には、破簾《やれみす》を下げて煤《すす》だらけの勝手を隔てた。二十分の後此|楽屋《がくや》から現われ出た花嫁君《はなよめぎみ》を見ると、秋草の裾模様《すそもよう》をつけた淡紅色《ときいろ》絽《ろ》の晴着で、今咲いた芙蓉《ふよう》の花の様だ。花婿も黒絽紋付、仙台平の袴、凜《りゅう》として座って居る。
媒妁は一咳《いちがい》してやおら立上った。
「勝田慶三郎」
「松居千代」
卒業免状でも渡す時の様に、声《こえ》厳《おごそか》に新郎新婦を呼び出して、テーブルの前に立たせた。而《そう》して媒妁は自身愛読する創世記《そうせいき》イサク[#「イサク」に傍線]、リベカ[#「リベカ」に傍線]結婚の条を朗々《ろうろう》と読み上げた。
「祈祷《きとう》を致します」
斯く云って、媒妁がやゝ久しく精神を統一すべく黙って居ると、
「祈祷を致すのでございますか」
と新郎がやゝ驚いた様に小声できく。媒妁は頓着《とんじゃく》なく祝祷《しゅくとう》をはじめた。
祈祷が終る。妻が介抱《かいほう》して、新郎新婦を握手させる。一旦新婦の手からぬいて置いた指環
前へ
次へ
全342ページ中100ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳冨 健次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング