駄を片足、藁草履《わらぞうり》を片足、よく跛|曳《ひ》いてあるく。曾《かつ》て穿《は》きふるしの茶の運動靴《うんどうぐつ》をやったら、早速穿いて往ったが、十日たゝぬ内に最早《もう》跣足《はだし》で来た。
 江戸の者らしい。何時《いつ》、如何な事情の下に乞食になったか、余程話を引出そうとしても、中々其手に乗らぬ。唯床屋をして居たと云う。剃刀《そり》の磨《と》ぐのでもありませんか、とある時云うた。主人の髯《ひげ》は六七年来放任主義であまりうるさくなると剪《はさみ》で苅《か》るばかりだし、主婦は嫁《か》して来て十八年来一度も顔を剃《す》ったことがないので、家には剃刀《かみそり》と云うものが無い。折角の安さんの親切も、無駄であった。然し剃刀《そり》があった処で、あの安さんの清潔《きれい》な手では全く恐れ入る。
 いつも門口《かどぐち》に来ると、杖のさきでぱっ/\と塵《ごみ》を掃く真似をする。其|響《おと》を聞いたばかりで、安さんと分《わか》った。「おゝそれながら……」と中音で拍子《ひょうし》をとって戸口に立つこともある。「春雨《はるさめ》にィ……」と小声で歌うて来ることもある。ある時来たのを捉《つらま》えて、笊《ざる》で砂利を運ぶ手伝をさせ、五銭やったら、其れから来る毎に「仕事はありませんか」と云う。時々は甘えて煙草をくれと云う。此家《うち》では喫《の》まぬと云っても、忘れてはまた煙草をくれと云う。正直の仙さんは一剋《いっこく》で向張りが強く、智慧者《ちえしゃ》の安さんは狡獪《ずる》くて軟《やわらか》な皮をかぶって居た。
 夏は乞食の天国である。夏は我儕《われら》も家なンか厄介物を捨てゝしもうて、野に寝、山に寝、日本国中世界中乞食して廻《まわ》りたい気も起る。夏は乞食の天国である。唯|蚊《か》だけが疵《きず》だが、至る処の堂宮《どうみや》は寝室《ねま》、日蔭《ひかげ》の草は茵《しとね》、貯えれば腐るので家々の貰い物も自然に多い。ある時、安さんが田川《たがわ》の側に跪《ひざまず》いて居るのを見た。
「何をして居るのかね、安さん?」
 声《こえ》をかけると、安さんは寝惚《ねぼ》けた様な眼をあげて、
「エ、エ、洗濯をして」
と答えた。麦藁帽《むぎわらぼう》の洗濯をして居るのであった。処々の田川は彼の洗濯場で、また彼の浴槽であった。
 冬は惨《みじめ》だ。小屋かけ、木賃宿《きちんや
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