諸事《しょじ》円滑《えんかつ》に運んで居るとやら、愚痴《ぐち》は最早言いますまい。唯先生を中心として起った悲劇に因《よ》り御一同の大小《だいしょう》浅深《せんしん》さま/″\に受けられた苦痛から最好きものゝ生れ出でんことを信じ、且|祷《いの》るのみであります。

       四

 勿論先生があなたを深く深く愛された事は、誰よりもあなたこそ御存じの筈《はず》。あなたを離れて出奔される時にも、先生はあなたを愛して居られた。否《いや》、深くあなたを愛さるればこそ先生は他人に出来ない事を苦痛を忍んで為《せ》られたのです。頗無理な言葉の様ですが、先生の家出の動機の重なる一が、あなたはじめ先生の愛さるゝ人達の済度《さいど》にあった事は決して疑はありません。人は石を玉と握ることもあれば、玉を石と抛《なげう》つ場合もあります。獅子は子を崖《がけ》から落します。我々の捨てるものは、往々我々にとって一番捨て難い宝《たから》なのです。先生にとって人の象《かたち》をとった一番の宝は、あなたでした。臨終の譫言《うわごと》にもあなたの名を呼ばれたのでも分かる。あなたは最後までも先生の恋人でした。あなたの為に先生は彼様《あん》な死をされた。あなたは衷心《ちゅうしん》に確にソレを知ってお出です。夫人、あなたは其深い深い愛の下《もと》に頭を低《た》れて下さることは出来ないのでしょう乎。人の霊魂は不覊《ふき》独立《どくりつ》なもの、肉体一世の結合は彼|若《もし》くば彼女の永久の存在を拘束することは出来ないのですから、先生の生前、先生は先生の道、あなたはあなたの路《みち》を別々に辿《たど》られたのも致方は無いものゝ、先生が肉の衣《ころも》を脱がれた今日、私は金婚式でも金剛石婚式《こんごうせきこんしき》でもなく、第二の真の結婚が御両人《おふたり》の間に成就されん事を祈って已《や》まないのであります。悲哀《ひあい》を通して我々は浄《きよ》められるのです。苦痛を経由《けいゆ》して我々は智識に達するのです。敬愛する夫人よ、先生はあなたの良人御家族の父君で御|出《いで》でしたが、また凡そ先生を信愛する者の総ての父でした。敬愛する夫人よ、あなたは今ヤスナヤ、ポリヤナ[#「ヤスナヤ、ポリヤナ」に二重傍線]小王国《しょうおうこく》の皇太后で御出ですが、同時にあなたを識《し》る程の者の母君となられるのである事をお忘《
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