の雛様である。
坊の娘が片方の手に蕎麦を入れたザルを持ち、一方の手にお膳を持って、月のいい晩にやってきた。
「お蕎麦がおいやなら、こちらに御飯も御座います」
蕎麦は色が黒いが、口触りがまことによい。山中の夜はそれを口にすると、何かひやりとした感触がある。
娘はいつも着物を長目にきるので、歩くたびに、かすかな衣ずれがする。書院作りの広い間を二つ三つ通りすぎて行く足音は、まるで燭の火で足もとを見つめて行く、昔の人のそれのようである。
「お蕎麦を召上ったら、御庭に出て御覧なさい」と云う。「私共もこれからお月さまを拝みに参ります」
山中の月の出は晩いときいたが、庭に出て見ると、いつのまにかうっすらした光が射していた。海抜幾千尺、庭の萩の花が咲き乱れていた。一つびとつの小さな花は秋の眸のように鮮やかであった。
坊の娘は何処でお月さまをおがんでいるのか、一向に姿を見せなかった。
底本:「日本の名随筆19 秋」作品社
1984(昭和59)年5月25日発行
底本の親本:「津村信夫全集 第二巻」角川書店
1974(昭和49)年11月
入力:小鍛治茂子
校正:林幸雄
2003年
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