登山の朝
辻村伊助

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)杖《シュトック》を

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)いよいよ|岩登り《クレッテライ》を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「火+暇のつくり」、第3水準1−87−50]
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 八月一日はブンデスタークだ、スウィス開国の記念日である。
 二階の寝室で目ざましがチリチリ鳴り出した、腕時計の針はちょうど午前一時を示している、いぎたなく寝込んでしまった近藤君をたたき起こして、隣の室に出ると、上からガイドの連中が降りて来た。外は、山稜にたち切られた空に星が冷たくまたたいて、風はないが非常に寒い。入口の水たまりは、むろん、厚く凍って歯をみがくどころの騒ぎではない。簡単な食事を無理やりにつめこんで、登山服に身をかためて、さて一ぷくたばこを吸った上、室の中から、もうロープで数珠つなぎになって、雪の上に降りた。ちょうど午前二時である。
 カチカチに凍りついた雪を踏みしめて、サック、サック、一足ごとに杖《シュトック》をついて、星明かりに青く光る雪の斜面にかかった時、かつて覚えない緊張した気持ちになった。先登はヘッスラーで、次が私、フォイツは後殿《しんがり》である、ガイドの持ったランターンが、踏み固めた雪路に赤くにじんで、東へ東へと揺れて行く。昨日の跡が凸凹に凍っていて非常に歩きにくい、がそれがなかったなら、ぼーっと一面に螢光を放って、闇に終わる広い雪の斜面に、私たちは取るべき道を迷ったに相違ない。
 星明かりに登る雪路は、昨日すべり降りた足路をたどったのであるが、道が違いはしないかと思われたほど非常に遠く、それに思ったよりも急でなく、どこまで登っても果てがないように感ぜられた。しかしそれは、比較するもののない夜道と、雪の上で非常に手間どったためであったろう。私は危ぶみながら立ち止まって見回した。ランターンの赤くにじむ幾尺のほかは、沙漠のような灰色のフィルンである。
 雪をさんざん登りつめると、急な崖に取っついた、北へ切れれば、シュレック・フィルンから落ちる深い氷河で、雪の反射から黒い崖に移った私たちは、薄暗いランターンに足元の幾平方尺を照らしながら、石垣の塗土のように、岩のかけらに食い込んだ氷に杖を打ち込んで、また東へ向かって登って行った。
 私たちはガッグと呼ばれる岩角に来た。すぐ右手は、シュトラールエックホルンの尾根つづきであるが、頭の上まで薄青く、銀河のようにつづいた積雪のほかには何も見えない。
 雪は、ガッグのはずれから、また急に深くなって、右側の急斜に沿うてぐるっと曲がって行くと、昨日の足跡はそこでばったり止まって、目の前には、ひろびろとした雪田が横たわる、シュレック・フィルンである。
 ろうそくが惜しいので、ランターンを消してしまって、この昨日踏み固めに来た終点で、ひいて来たロープの上に腰をおろして一休みした。三千三百メートルと、地図に記された地点である。
 ランターンを消してしまうと、目はようやく暗がりに慣れて、星明かりが思ったよりも明るくなる。私たちの正面には、クーロアールが胸をつくばかりにつっ立っている。まっ黒にそびえた、そのアレトに境されて、下はクーロアールの、「辛うじて積雪をとどめ得る」と記載された急斜で、上は満天の星が、グロース・シュレックホルンの空にばかり集まったように忙しくまたたいている。アレトの上を斜めに流れたのを、銀河とばかり思っていたが、それは空に凍りついて、じっといつまでも動かない薄雲にすぎなかった。
 もう四時半になった、山は依然として薄暗く、空にはまだ暁の色はただよわない、そしてまた一同が立ち上がった折も、再びランターンの光を借りなくては、クレヴァースの口を開いた、シュレック・フィルンを横切ることはできなかった。
 ここからもう足形はない、雪は堅く凍って、靴底の釘がガリガリ食い入るだけで、今までよりもかえって歩きやすい、しかし私たちは、注意に注意して、大小のクレヴァースの間を縫って、静かに、つま先上りのフィルンを登って行った。
 ある時には、飛び越せると思ったクレヴァースが思いのほか広くて、せっかく来た暗がりのフィルンを、あともどりしてぐるっと遠回わりに向こう側に渡ったこともある、こうしてクーロアールの直下までたどりつくと、そこに二列の非常に大きなクレヴァースがある、昨日雪踏みに来た時、遠くから眺めて、あれをどうして飛び越すのかと思ったが、近づくとヘッスラーの言った通り、その二列はフィルンの間に食い違いになって、狭い雪橋《シュネーブリュッケ》が斜めにクレヴァースを横切っている、私たちは難なくそ
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