上に出そうなものだと思ったが、尾根は牙のような岩ばかりで、その両側の岩壁にかじりついて、登ったり降りたりするので、尾根の向こう側はまだ見ることが出来ない。
 岩壁の下は、深い底の方から、雪の急斜になって、手をゆるめればそれっきりだ、壁《ワンド》をはいずり下って、岩の上に出ると、またその岩というのがギザギザに欠けているから、石は落ちやすいし手がかりはなし、両手を広げて、コウモリみたいに岩に食いつくような格好で、登ったり降りたりするのはずいぶんたまらない。
 もうこうなると、登路なんていうのはあてにはならない、先登のヘッスラーがはいずって行くから、すぐ後ろからロープに縛られて登って行くと、岩の向こう側は断崖で、行き止まりになっている、すると今度は逆もどりをして、フォイツが先登になって別の岩をよじ登る。Uchi《ウアヒ》 ! とか Chum《フム》 ucha《アハ》 ! なんて言葉が、飽きるほど聞かされた。Uchi は hinauf ! のスウィス語で、Chum ucha は Komm herauf ! である、がそれにつづいてガイドの間にくりかえされる言葉に至っては、この岩登りと同様に、私にはてんで見当もつかない。
 岩はくずれてカミソリのように鋭くなっている、ずいぶん丈夫な切れ地を選んだつもりだったが、ロンドンで仕立ておろしのズボンには方々に穴があいて、下から血がにじんでくる、掌などは傷だらけだが、あぶなくて手袋などはめてはいられない、ただ満身の力を両腕にこめて、機械体操の要領で、ずり上がるよりほかに仕方はない。
 小屋を発って、ちょうど八時間目に、やっと雪の山稜の直下に達した、考えてみると、あまり大事をとりすぎて、よほどグロース・ラウテラールホルンの方に片寄って登ったように思われる、そしてそれと、グロース・シュレックホルンとをつなぐ山稜の上は、あぶなくて通れないから、クーロアールに臨んだ崖に沿うて、はいずっておったのである。
 山稜の上に残った雪の上に、荷をおろして一休みした、後ろはひどくえぐられた深い崖の底に、ラウテラール・グレッチェルがのぞかれる。それの向こうはベルクリシュトックから、左に並んで、ウェッテルホルンの三山、ここから見るとむろん、立派なのはまん中のミッテルホルンで、左のハスリ・ユンクフラウは、頂上の岩がこぶのように見おろされる。
 朝の一時から何にも食べないんで、ちょっと休んだらもうがまんがしきれない、頂上は頭の上だが、そこにつづく鋭い山稜は切っ立てになってるから、ずいぶん骨が折れそうだ、四人とも言い合わせたように、リュックサックとにらめっこをしていたが、やせがまんなんかするやつは、ばかだということに評議一決して、氷の角によりかかって、一同早昼の食事にありつく。ところが、昨日今日雪の上で思い切りよくさらしぬいた顔の皮は、もとより尋常な皮膚のことで、ほてってほてってびりびりするし、こうなるとグレッチェル・クレームなどに至っては、いやが上にもきたなく見せるだけで、何の役にもたたない、それはいいが、件の顔で、肉をかじると、厚く切ったベイコンなんか、ほおばるほどには口が開けないし、無理にすると顔が火のつくように熱く※[#「火+暇のつくり」、第3水準1−87−50]《や》ける。
 お茶がわりにコニャックと雪をかじって、一息入れた後、いよいよここを発って、急な鋭い氷の山稜にとっついた。左はシュレック・フィルンまで切っ立ての崖で、右には深い深い底の方に、ラウテラール・グレッチェルがのぞかれる、このアレトは、千八百六十九年の夏、ここからすべり落ちて微塵になったと伝えられる、かのエリオットの名をとって、エリオット・ウェンドリと呼ばれておる。
 私たちは氷に足形を刻んで、静かにそのアレトをよじ登った。グロース・シュレックホルンの頂上は、氷柱が無数にたれ下がった岩で、もうすぐ頭の上になったが、時間はなかなかかかって、氷から柔らかい雪に変わった山稜を、胸をおどらせてかけ登った時、腕時計は、ちょうど午前十一時三十分を示しておった。
 絶頂の氷の上に、近藤君と抱き合って喜んだのはこの時である、グリュッセを叫んで、ガイドたちと互いに堅く握手して、日の強い最高点に、躍り上がって喜んだのはこの時であった。
 八月一日の、昼に近い太陽は、グロース・シュレックホルンの絶頂に、私たちの影をはっきりと描き出した。影はアレトに立ちきられて、三段に雪の上にすべっている。



底本:「日本の名随筆10 山」作品社
   1983(昭和58)年6月25日第1刷発行
   1998(平成10)年8月10日第26刷発行
底本の親本:「新編 日本山岳名著全集5」三笠書房
   1976(昭和51)年発行
入力:門田裕志
校正:林幸雄
2003年5月17日作成
青空
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