方をして、それに無言の答えをしていた。けれども何処から使者が行ったかは気が付いていないらしい。
けれども、お宮はあの通り隠れると言ったから、本当にいなくなるかも知れぬ。若し矢張りいるにしても、いなくなると言って置いた方が事がなくって好い。無残々々《むざむざ》と人に話すには、惜いような昨夕《ゆうべ》であったが、寧《いっ》そ長田に話して了って、岡嫉きの気持を和《やわら》がした方が可い。と私は即座に決心して、
「例のは、もう居なくなるよ。二三日《にさんち》あと一寸《ちょいと》行ったが、彼女《あれ》には悪い情夫《おとこ》が付いている。初め大学生の処に嫁に行っていたなんて言っていたが、まさか其様《そん》な事は無いだろうと思っていたが、その通りだった。その男を去年の十二月から、つい此間《こないだ》まで隠れていたんだが、其奴がまた探しあてて出て来たから二三日中にまた何処かへ隠れねばならぬ、と言って記念に持っていてくれって僕に古臭いしごき[#「しごき」に傍点]なんかをくれたりした。……少しの間面白い夢を見たが、最早《もう》覚めた。あゝ! あゝ! もう行かない。」
笑い/\、そう言うと、長田は興ありそうに聞いていたが、居なくなると言ったので初めて、稍《やや》同情したらしい笑顔になって、私の顔を珍らしく優しく見戍《みまも》りながら、
「本当に、一寸だったなあ。……そういうようなのが果敢き縁《えにし》というのだなあ!」
と、私の心を咏歎するように言った。私もそれにつれて、少しじめ/\した心地になって、唯、
「うむ!」と言っていると、
「本当にいなくなるか知らん? そういうような奴は屡《よ》くあるんだが、其様なことを言っても、なか/\急に何処へも行きゃしないって。……そうかと思っていると、まだ居ると思った奴が、此度行って見ると、もういなくなっている、なんて言うことは屡くあることなんだから。」と、長田は自分の従来《これまで》の経験から割り出したことは確だと、いうように一寸首を傾けて、キッとした顔をしながら半分は独言のように言った。
私は、凝乎《じっ》と、その言葉を聞きながら顔色を見ていると、
「その内是非一つ行って見てやろう。」という心が歴々《ありあり》と見える。
「或はそうかも知れない。」と私はそれに応じて答えた。
暫時《しばらく》そんなことを話していたが、長田は忙しそうであったから、早く出て戻った。
自家《うち》に戻ると、日の短い最中だから、四時頃からもう暗くなったが、何をする気にもなれず、また矢張り机に凭《よ》って掌に額を支えたまゝ静《じっ》としていると、段々気が滅入り込むようで、何か確乎《しっかり》としたものにでも執り付いていなければ、何処かへ奪《さら》われて行きそうだ。そうして薄暗くなって行く室《へや》の中では、頭の中に、お宮の、初めて逢った晩のあの驚くように長く続いた痙攣。深夜《よふけ》の朧に霞んだ電灯の微光《うすあかり》の下《もと》に惜気もなく露出して、任せた柔い真白い胸もと。それから今朝「精神的に接するわ」と言った、あの時のこと、その他折によって、種々《いろいろ》に変って、此方《こちら》の眼に映った眉毛、目元口付、むっちりとした白い掌先《てさき》、くゝれの出来た手首などが明歴《ありあり》と浮き上って忘れられない。……それが最早《もう》居なくなって了うのだと思うと、尚お明らかに眼に残る。
私は、何うかして、此の寂しく廃《すた》れたような心持を、少しでも陽気に引立てる工夫はないものか、と考えながら何の気なく、其処にあった新聞を取上げて見ていると、有楽座で今晩丁度呂昇の「新口村《にのくちむら》」がある。これは好いものがある。これなりと聞きに行こう、と、八時を過ぎてから出掛けた。
そういうようにして、お宮に夢中になっていたから、勝手に付けては、殆ど毎日のように行っていた矢来の婆さんの家《ところ》へは此の十日ばかりというもの、パッタリと忘れたように、足踏みしなかったが、お宮がいなくなって見ると、また矢張り婆さんの家が恋しくなって、久振りに行って見た。婆さんは何時も根好く状袋を張っていたが、例《いつも》の優しい声で、
「おや、雪岡さん、何うなさいました? 此の頃はチットもお顔をお見せなさいませんなあ。何処かお加減でも悪いのかと思って、おばさんは心配していましたよ。」と言いながら、眼鏡越しに私を見戍って、「雪岡さん、頭髪《かみ》なんかつんで、大層綺麗におめかしして。」と、尚お私の方を見て微笑《わら》っている。
「えゝ暫時御無沙汰をしていました。」
と言っていると、
「雪岡さん。あなた既《も》う好い情婦《おんな》が出来たんですってねえ。大層早く拵えてねえ。」と、あの婆さんのことだから、言葉に情愛を付けて面白く言う。私は、ハテ不思議だ、屹度お宮のことを言うのだろうが、何うしてそれが瞬く間に此の婆さんの家《ところ》にまで分ったろうか、と思って、首を傾けながら
「えゝ、少しゃそれに似たこともあったんですが、何うして、それがおばさんに分って?」
「ですから悪いことは出来ませんよ。……チャンと私には分ってますよ。」
「へえ! 不思議ですねえ。」
「不思議でしょう。……此の間お雪さんが柳町へ来た序《ついで》に、また一寸寄った、と言って、私の家へ来て、『まあ、おばさん。聞いて下さい。雪岡は何うでしょう、既う情婦を拵えてよ。矢張りまた前年《いつか》のように浜町か蠣殻町《かきがらちょう》らしいの。……あの人のは三十を過ぎてから覚えた道楽だから、もう一生止まない。だから愛想が尽きて了う。』ッて、お雪さんが自分でそう言っていました。……雪岡さん、本当に悪いことは言わないから淫売婦《いんばい》なんかお止しなさい。あなたの男が下るばかりだから。」と思い掛けもないことを言う。
「へーえッ……驚いたねえ! お雪が、そう言った。不思議だ! ※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]だろう。おばさん可い加減なことを言っているんでしょう。お雪が其様《そん》なことを知っている理由《わけ》がないもの。……」
「不思議でしょう! ……あなた此の頃、頭髪《あたま》に付ける香油《あぶら》かなんか買って来たでしょう。ちゃんと机の上に瓶が置いてあるというではありませんか。そうして鏡を見ては頭髪《かみ》を梳《と》いているでしょう。」婆さんは、若い者と違って、別段に冷かすなどという風もなく、そういうことにも言い馴れた、という風に、初めから終《しまい》まで同じような句調で、落着き払って、柔らかに言う。
「へーえッ! 其様《そん》なことまで! 何うしてそれが分ったでしょう?」
「それから女の処から屡《よ》く手紙が来るというではありませんか。」
「へッ! 手紙の来ることまで!」
私は本当に呆れて了った。そうして自然《ひとりで》に頭部《あたま》に手を遣りながら、「気味が悪いなあ! お雪の奴、来て見ていたんだろうか。……彼奴屹度来て見たに違い無い。」
「否《いや》、お雪さんは行きゃしないが、お母《っか》さんが、お雪さんの処へ行って、そう言ったんでしょう。……そうして此の頃何だか、ひどくソワ/\して、一寸々々《ちょいちょい》泊っても来るって。帰ると思って、戸を締めないで置くもんだから不用心で仕様が無いって。」
「へーえッ! あの婆さんが、そう言った。※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]だ! 年寄に其様なことが、一々分る道理《わけ》が無いもの。」
「それでも、お母さんが、そう言ったって。お母さんですよ。違やあしませんよ。……あれで矢張し吾が娘《こ》に関したことだから、幾許《いくら》年を取っていても、気に掛けているんでしょうよ、……何うしても雪岡という人は駄目だから、お前も、もう其の積りでいるが好いって、お雪さんに、そう言っていたそうですよ。」
「へーえッ! そうですかなあ! 本当に済まないなあ!」私は真《しん》から済まないと思った。
「ですからお雪さんだって、あなたの動静《ようす》を遠くから、あゝして見ているんですよ。嫁《かたづ》いてなんかいやしませんよ。」
「そうでしょうか?」
「そうですよ。それに違いありませんよ……此の間も私の話を聞いて、お雪さん、独りで大層笑っていましたっけ……私が、『お雪さん、雪岡さんがねえ。時々私の家《ところ》へ来ては、婆やのように、おばさん/\と、くさやで、お茶漬を一杯呼んで下さいと言って、自家《うち》に無ければ、自分で買って来て、それを私には出来ないから、おばさんに焼いて、むしってくれって、箸を持ってちゃんと待っているのよ。』と言ったら、お雪さんが、『まあ! 其様なことまでいうの? 本当に雪岡には呆れて了う。おばさんを捉《つかま》えて私に言う通りに言っているのよ。』と独りではあはあ[#「はあはあ」に傍点]言って笑っていましたよ。」と婆さんは、言葉に甘味《うまみ》を付けて、静かに微笑《わら》いながら、そう言った。
私も「へーえ、お雪公、其様なことを言っていましたか。」と言いながら笑った。
淫売婦《いんばい》と思えば汚いけれどお宮は、ひどく気に入った女だったが、彼女《あれ》がいなくなっても、お前が時々、矢来《ここ》へ来て其様なことを言って、婆さんと、蔭ながらでも私の噂をしているかと思えば、思い做しにも自分の世界が賑かになったようで、お宮のことも諦められそうな気持がして、
「矢張り何処に居るとも言いませんでしたか。」
と、訊ねて見たが、婆さんも、
「言わないッ! 何処にいるか、それだけは私が何と言って聞いても、『まあ/\それだけは。』と言って何うしても明さない。」
と、さも/\其れだけは、力に及ばぬように言う。
そうなると、矢張り私の心元なさは少しも減じない。それからそれへと、種々《いろん》なことが思われて、相変らず心の遣りばに迷いながら、気抜けがしたようになって、またしても、以前のように何処という目的《あて》もなく方々歩き廻った。けれどもお宮という者を知らない時分に歩き廻ったのとはまた気持が大分違う。寂しくって物足りないのは同じだが、その有楽座の新口村を聴いてから、あの「……薄尾花《すすきおばな》も冬枯れて……」と、呂昇の透き徹るような、高い声を張り上げて語った処が、何時までも耳に残っていて、それがお宮を懐かしいと思う情《こころ》を誘《そそ》って、自分でも時々可笑いと思うくらい心が浮《うわ》ついて、世間が何となく陽気に思われる。私は湯に入っても、便所に行っても其処を口ずさんで、お宮を思っていた。
明後日《あさって》までに何とか定《き》めて了わなければならぬ、と、言っていたから、二日ばかりは其様《そん》な取留めもないことばかりを思っていたが、丁度その日になって、日本橋の辺を彷徨《うろうろ》しながら、有り合せた自動電話に入って、そのお宮のいる沢村という家へ聞くと、お宮は居なくて、主婦《おかみ》が出て、
「えゝ、宮ちゃん。そういうことを言うにゃ言っていたようですけれど、まだ急に何処へも行きゃしないでしょう。荷物もまだ自家《うち》に置いているくらいですもの。……ですから、御安心なさい、また何うか来てやって下さい。」と、流石に商売柄、此方《こちら》から正直に女から聞いた通りを口に出して訊ねて見ても、其様な悪い情夫《おとこ》の付いていることなんか、少しも知らぬことのように、何でもなく言う。
兎に角、そう言うから、じゃお宮という女|奴《め》、何を言っているのか、知れたものじゃない、と思いもしたが、まだ何処へも行きゃしないというので安心した。斯うしてブラ/\としていても、まだ心の目的《あて》の楽しみがあるような気がする。けれども其処にいるとすれば、何れ長田のことだから、此の間も、あの「本当に何処かへ行くか知らん?」と言っていた処を見ると、遣って行くに相違ない。その他|固《もと》より種々《いろん》な嫖客《きゃく》に出る。これまでは其様なことが、そう気にならなかったが、しごきをくれた心が忘れられないばかりではない、あれからは女が自分の物の
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