はひどく面窶《おもやつ》れがして、先刻洗って来た、昨夕《ゆうべ》の白粉の痕が青く斑点《ぶち》になって見える。「……万里泊舟天草灘《ばんりふねをはくすあまくさのなだ》……」と唯口の前《さき》だけ声を出して、大きく動かしている下腮《したあご》の骨が厭に角張って突き出ている。斯うして見れば年も三つ四つ老けて案外、そう標致《きりょう》も好くないなあ! と思った。
「ねえ! 教えて下さい。」
と、いうから、「じゃ好いのを教えよう。」と気は進まないながら、自分の好きな張若虚の「春江花月夜《しゅんこうかげつのよ》」を教えて遣った。「これに書いて意味を教えて下さい。」というから巻紙に記して、講釈をして聞かせて遣った。「……昨夜間潭夢落花《さくやかんたんらっかをゆめむ》。可憐春半不還家《あわれむべししゅんぱんいえにかえらず》。江水流春去欲尽《こうすいりゅうしゅんさってつきんとほっす》……」という辺《あたり》は私だけには大いに心遣りのつもりがあった。
飯は済んだが、私はまだ女を帰したくなかった。
お宮は、心は何処を彷徨《うろつ》いているのか分らないように、懐手をして、呆然《ぼんやり》窓の処に立って、つま先きで足拍子を取りながら、何かフイ/\口の中で言って、目的《あて》もなく戸外《そと》を眺めなどしている。
「あなた、一寸々々《ちょいとちょいと》。」
と、いうから、「えッ何?」と、立って、其処に行って見ると、
「あれ、子供が体操の真似をしている。……見ていると面白いよ。」と、水天宮の裏門で子供の遊んでいるのを面白がっている。
私は、「何だ! 昨夜はあんな思い詰めたようなことを言って、今朝の此のフワ/\とした風は? ……」と元の座に戻りながら、不思議に思って、またしても女の態度《ようす》を見戍った。
すると、女は、フッと此方《こちら》を振向いて、窓の処から傍に寄って来ながら、
「あなた、妾を棄てない? ……棄てないで下さい!」と、言葉に力は入っているが、それもまた口の前《さき》から出るのやら、腹の底から出たのやら分らぬような調子で言った。
「あゝ。」と、私もそれに応ずるように返事した。
「じゃ屹度棄てない? ……屹度?」重ねて言った。
そう言われると、此方《こっち》もつい釣込まれて、
「あゝ屹度棄てやしないよ。……僕より君の方が棄てないか?」と、言ったが、真実《ほんとう》に腹から「棄てないで下さい!」と言うのならば、思い切って、何うかして下さい、とでも、も少し打明けて相談をし掛けないのであろうと、それを効《かい》なく思っていた。
そういうと、女は黙っていた。また以前《もと》の通り何処に心があるのやら分らなかった。するとまた暫く経って、「定ったらあなたに手紙を上げますから、そうしたら何うかして下さいな。」とそう言う。此度は此方で「うむ!」と気のない返事をした。
戸外《そと》は日が明るく照って、近所から、チーン、チーンと鍜冶の槌の音が強く耳に響いて来る。何処か少し遠い処で地を揺《ゆす》るような機械の音がする。今朝は何だか湿りっ気がない。
勘定が大分|嵩《かさ》んだろう。……斯う長く居るつもりではなかったから、固より持合せは少かった。私は突然《だしぬけ》に好い夢を破られた失望の感と共に、少しでも勘定が不足になるのが気になって、そうしていながらも、些《ちっ》とも面白くなかった。私にはまだ自分で待合で勘定を借りた経験はなかった。お宮を早く帰せば銭《かね》も嵩まないと分っていたが、それは出来なかった。又仮令これ限《き》りお宮を見なくなるにしてもお宮のいる前で勘定の不足をするのは尚お堪えられなかった。そう思って先刻《さっき》から、一人で神経を悩ましていたが、ふっと、今日は、長田《おさだ》が社に出る日だ、彼処《あすこ》に使いを遣って、今日は最う十七日だから、今月書いた今までの分を借りよう。――それはお前も知っている通りに、始終《しょっちゅう》行《や》っていたことだ。――と、そう気が付いて、手紙の裏には「牛込区喜久井町、雪岡」と書いて車夫《つかい》に、彼方《あちら》に行ってから、若しも何処から来たと聞かれても、牛込から来た、と言わしてくれと女中に頼んだ。
暫時《しばらく》して車夫は帰って来たが、急いで封を切って見ると、銭は入っていなくって唯、
「主筆も編輯長もまだ出社せねば、その金は渡すこと相成りがたく候。」
と、長田の例《いつも》の乱筆で、汚い新聞社の原稿紙に、いかにも素気《そっけ》なく書いてある。私は、それを見ると、銭の入っていない失望と同時に「はっ」と胸を打たれた。成程|使者《つかい》が丁度向に行った頃が十二時時分であったろうから、主筆も編輯長もまだ出社せぬというのは、そうであろう。が、「その金は渡すこと相成り難く候。」とあるのは可怪《おかし》い。長田の編輯している日曜附録に、つまらぬことを書かして貰って僅かばかりの原稿料を、併も銭に困って、一度に、月末まで待てないで、二度に割《さ》いたりなどして受取っているのだが、分けても此の頃は種々《いろん》なことが心の面白くないことばかりで、それすら碌々に書いてもいない。けれども前借をと言えば、仮《よ》し自分が出社せぬ日であっても、これまで何時も主筆か編輯長に当てゝ幾許《いくら》の銭を雪岡に渡すように、と、長田の手紙を持ってさえ行けば、私に直ぐ受取れるように、兎に角気軽にしてくれている。然るに、仮令銭は渡せない分とも、その銭は渡すことならぬ、というその銭は、何ういうつもりで書いたのだろう? 自分は平常《ふだん》懶惰者《なまけもの》で通っている。お雪を初めその母親《おや》や兄すらも、最初こそ二足も三足も譲っていたものだが、それすら後には向からあの通り遂々《とうとう》愛想を尽かして了った。幾許自分にしても傍《はた》で見ているように理由《わけ》もなく、只々懶けるのでもないが、成程懶けているに違いない。長田は国も同じければ、学校も同時に出、また為《し》ている職業も略《ほ》ぼ似ている。それ故此の東京にいる知人の中でも長田は最も古い知人で、自分の古い頃のことから、つい近頃のことまで、長田が自分で観、また此方から一寸々々《ちょいちょい》話しただけのことは知っている。長田の心では雪岡はまた女に凝っている、あの通り、長い間一緒にいた女とも有耶無耶《うやむや》に別れて了って、段々詰らん坊になり下っている癖に、またしても、女道楽でもあるまい、と、少しは見せしめの為にその銭は渡すこと相ならぬ、という積りなのであろうか。それならば難有い訳だ。が、否《いな》! あの人間の平常《ふだん》から考えて見ても、他人《ひと》の事に立入った忠告がましいことや、口を利いたりなどする長田ではない。して見れば、此の、その銭は渡されぬという簡単な文句には、あの先達ての様子といい、長田の性質が歴然《ありあり》と出ている。これまでとても、随分向側に廻って、小蔭から種々な事に、ちびり/\邪魔をされたのが、あれにあれに、あれと眼に見えるように心に残っている。此度はまた淫売のことで崇られるかな、と平常は忘れている、其様《そん》なことが一時に念頭に上って自分をば取着く島もなく突き離されたその上に、まだ石を打付《ぶッつ》けられるかと、犇々《ひしひし》と感じながら、
「ふむ/\。」と、独り肯《うなず》き/\唯それだけの手紙を私はお宮が、
「それは何?」
と、終《しまい》に怪しんで問うまで、長い間、黙って凝視《みつ》めていた。それ故文句も、一字一句覚えている。
お宮にそう言われて、漸《やっ》と我れに返って、「うむ。何でもないさ!」と言って置いて、早速降りて行って、女中を小蔭に呼んで訳を話すと、女中は忽ち厭あな顔をして、
「そりゃ困りますねえ。手前共では、もう何方《どなた》にも、一切そういうことは、しないようにして居るんですが、万一そういうことがあった場合には、私共女中がお立て換えをせねばならぬことになって居るんですから。ですから其の時は時計か何か持ってお出になる品物でも一時お預りして置くようにして居りますが。」と、言いにくそうに言う。じゃ、古い外套《とんび》だが、あれでも置いとこう、と、私が座敷に戻って来ると、神経質のお宮は、もう感付いたか、些《ちょい》と顔を青くして、心配そうに、
「何事《なに》? ……何《ど》うしたの? ……何うしたの?」と、気にして聞く。私は、失敗《しくじ》った! と、穴にも入りたい心地を力《つと》めて隠して、
「否《う》む! ナニ。何でもないよ。」と言っていると、階下《した》から、
「宮ちゃん! 宮ちゃん!」と口早に呼ぶ。
お宮は「えッ?」と降りて行ったが、直ぐ上って来て、黙って坐った。
「じゃ、もうお帰り。」と、いうと、
「そうですか。じゃもう帰りますから……種々《いろいろ》御迷惑を掛けました。」と、尋常に挨拶をして帰って行った。
その後から、直ぐ此度は、若い三十七八の他の女中が、入り交《かわ》りに上って来て、
「本当にお気の毒さまですねえ。手前共では、もう一切そういうことはしないことにして居りますから、どうぞ悪《あし》からず思召してねえ。……あの長田さんにも随分長い間、御贔屓にして戴いて居りますけれど、あの方も本当にお堅い方で。長田さんにすら、もう一度も其様《そん》なことはございませんのですから。……況してあなたは長田さんのお友達とは承知して居りますけれどついまだ昨今のことでございますし。」
と、さも気の毒そうな顔をして、黄色い声で、口先で世辞とも何とも付かぬことを言いながら追立てるように、其処等のものを片端《かたっぱし》からさっ/\と形付け始めた。
「えゝ、ナニ。そりゃそうですとも。私の方が済まないんです。私は今まで斯様《こん》な処で借りを拵えた覚えがないもんですから、それが極りが悪いんです。」と、心の千分の一を言葉に出して恥辱を自分で間切らした。
「あれ! 極りが悪いなんて。些ともそんな御心配はありませんわ。ナニ、斯様な失礼なことを申すのじゃございませんのですけれどねえ。」と、少し低声《こごえ》になった真似をして、「帳場が、また悪く八《や》ヶ間敷《まし》いんですから、私なんか全く困るんですよ。……時々斯うして、お客様に、女中がお気の毒な目をお掛け申して。」
「全く貴女《あんた》方にはお気の毒ですよ。……いや、何うも長居をして済みませんでした。」と、私はそんなことを言いながらも、
「あの女は、もういなくなるそうですねえ。……自分じゃ、つい此の間出たばかりだ、と言っていたが、そんなことはないでしょう。」と聞くと、
「えゝ居なくなるなんて、ことは、まだ聞きませんが、随分前からですよ。此度戻って来たのは、つい此間ですけれど、初めて出てから、もう余程になりますよ。」
と、言う。私は「彼女《あいつ》め! 何処まで※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]を吐《つ》くか。」と思って、ます/\心に描《か》いた女の箔が褪《さ》めた思いがした。
私は、あの古い外套《とんび》を形《かた》に置いて、桜木の入口を出たが、それでも、其れも着ていれば目に立たぬが、下には、あの、もう袖口も何処も切れた、剥げちょろけの古い米沢《よねざわ》琉球の羽織に、着物は例の、焼けて焦茶色になった秩父銘仙の綿入れを着て、堅く腕組みをしながら玄関を下りた時の心持は、吾れながら、自分の見下げ果てた状態《ざま》[#「状態」は底本では「状熊」]が、歴々《ありあり》と眼に映るようで、思い做しばかりではない、女中の「左様なら! どうぞお近い内に!」という送り出す声は、背後《うしろ》から冷水を浴せ掛けられているようであった。
昨夜《ゆうべ》は、お宮の来るのが、遅いので、女中が気にして時々顔を出しては、「……いえ。あの娘《こ》のいる家は、恐ろしい慾張りなもんですから、一寸でも時間があると、御座敷へ出さすものですから、それで斯う遅くなるのです。……本当にお気の毒さまねえ。でも、もう追付け参りましょうから。」と詫びながら柔かいお召のどてらなどを持って来て貸し
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