ぞっ》とするような気がして、これはなるたけ障らぬようにして置くが好いと思って、後を黙っていると、先は、反対《あべこべ》に、何処までも、それを追掛《おっか》けるように、
「此の頃は吾々の知った者が、多勢|彼処《あすこ》に行くそうだが、僕は、最早あんな処に余り行かないようにしなければならん。……安井なんかも、屡《よ》く行くそうだ。それから生田《うぶた》なんかも時々行くそうだから、屹度安井や生田なんかも買っているに違いない。生田が買っていると、一番面白いんだが。あはゝゝゝ。だから知った者は多い。あはゝゝゝ。」と、何処までも引絡んで厭がらせを存分に言おうとする。生田というのは、自家《うち》に長田の弟と時々遊びに来た、あの眼の片眼悪い人間のことだ。……あんまり執拗《しつこ》いから、私も次第に胸に据えかねて、此方が初め悪いことでもしはしまいし、何という無理な厭味を言う、と、今更に呆れたが、長田の面と向った、無遠慮な厭味は年来耳に馴れているので尚お静《じっ》と耐《こら》えて、
「君と青山とは、一生岡焼をして暮す人間だね。」と、矢張り笑って居ろうとして、ふッと長田と私との間に坐っている右手の饗庭の顔を見ると、饗庭が、何とも言えない独り居り場に困っているというような顔をして私の顔を凝乎《じっ》と見ている。その顔を見ると自分は泣き顔をしているのではないか、と思って、悄気《しょげ》た風を見せまいと一層心を励まして顔に笑いを出そうとしていると、長田は、ますます癖の白い歯を、イーンと露《あらわ》して嬲《なぶ》り殺しの止《とど》めでも刺すかのように、荒い鼻呼吸をしながら、
「雪岡が買った奴だと思ったらいやな気がしたが、ちぇッ! 此奴《こいつ》姦通するつもりで遊んでやれと思って汚《よご》す積りで呼んでやった。はゝゝゝゝ。君とお宮とを侮辱するつもりで遊んでやった。」とせゝら笑いをして、悪毒《あくど》く厭味を言った。
けれども私は、「何うしてそんなことを言うのか?」と言った処が詰まらないし、立上って喧嘩をすれば野暮になる。それに忌々しさの嫉妬心から打壊しを遣ったのだ、ということは十分に飲込めているから、何事《なに》に就けても嫉妬心が強くって、直ぐまたそれを表に出す人間だが其様なにもお宮のことが焼けたかなあ、と思いながら、私は長田の嫉妬心の強いのを今更に恐れていた。
それと共に、また自分の知った女をそれまでに羨まれたと思えば却って長田の心が気の毒なような気も少しは、して、それから、そういう毒々しい侮辱の心持でしたと思えば、何だかお宮も可哀そうな、自分も可哀そうな気分になって来た。私はそんなことを思って打壊された痛《つら》い心と、面と向って突掛《つっかか》られる荒立つ心とを凝乎《じっ》と取鎮めようとしていた。他の二人も暫時《しばらく》黙って座が変になっていた。すると饗庭が、
「あゝ、今日会いましたよ。」と、微笑《にこにこ》しながら、私の顔を見て言う。
「誰れに?」と、聞くと、
「奥さんに。つい、其処の山吹町の通りで。」
すると長田が、横合から口を出して、「僕が会えば好かったのに。……そうすれば面白かった。ふゝん。」という。私は、それには素知らぬ顔をして、
「何とか言っていましたか。」
「いえ。別に何とも。……唯皆様に宜《よ》く言って下さいって。」
すると、また長田が横から口を出して、
「ふゝん。彼奴《あいつ》も一つ俺れが口説いたら何うだろう。はゝッ。」と、毒々しく当り散す。
それを聞いて、仮令口先だけの戯談《じょうだん》にもせよ、ひどいことを言うと思って、私は、ぐっと癪に障った。今まで散々|種々《いろん》なことを、言い放題言わして置いたというのはお宮は何うせ売り物買い物の淫売婦《いんばい》だ。長田が買わないたって誰れが買っているのか分りゃしない。先刻《さっき》から黙あって聞いていれば、随分人を嘲弄したことを言っている。それでも此方《こちら》が強いて笑って聞き流して居ようとするのは、其様《そん》な詰まらないことで、男同士が物を言い合ったりなどするのが見っともないからだ。
お雪は今立派な商人《あきんど》の娘と、いうじゃない。またあゝいう処にも手伝ってもいたし以前|嫁《かたづ》いていた処もあんまり人聞きの好い処じゃなかった。あれから七年此の方、自分と、彼《ああ》なって斯《こ》うなったという筋道を知っているが為に、人を卑《さげす》んでそんなことを言うが、仮令見る影もない貧乏な生計《くらし》をして来ようとも、また其の間が何ういう関係であったろうとも、苟《かりそ》めにも人の妻でいたものを捉《つかま》えて、「彼奴も、一つ俺が口説いたら何うだろう。」とは何だ。此方で何処までも温順《おとな》しく苦笑で、済していれば付け上って虫けらかなんぞのように思っている。いって自分の損になるような人間に向っては、其様なことは、おくびにも出し得ない癖に、一文もたそくにならないやくざ[#「やくざ」に傍点]な人間だと思って、人を馬鹿にしやがるないッ。
と、忽ちそう感じて湧々《わくわく》する胸を撫でるように堪えながら、向の顔を凝乎と見ると、長田は、その浅黒い、意地の悪い顔を此方に向けて、じろ/\と視ている。
「彼奴も俺が口説いたら何うだろう。」と、いうその自暴糞《やけくそ》な出放題な言い草の口裏には、自分の始終《しょっちゅう》行っている蠣殻町で、此方が案外好い女と知って、しごきなどを貰った、ということが嫉けて嫉けて、焦《じ》れ/\して、それで其様なことを口走ったのだということが、明歴《まざ》と見え透いている。
そう思って、また凝乎と長田の顔色を読みながら、自分の波のように騒ぐ心を落着け落着けしていたが、饗庭は先刻その長田の言った言葉を聞くと、同時にまた気の毒な顔をして私を見ていたが、二人が後を黙っているので、暫時経ってから何と思ったか、
「あの人可いじゃありませんか。……私なんか本当に感服していたんですよ。感服していたんですよ。……」と、誰れにも柔かな饗庭のことだから、平常《ふだん》略《ほ》ぼ知っている私の離別に事寄せてその場の私を軽く慰めるように言う。
「えゝ、何うもそう行かない理由《わけ》があるもんですから。」と詳しく事情を知らぬ饗庭に答えていると、また長田が口を出して、
「ありゃ、細君にするなんて、初めから其様な気はなかったんだろう。一寸《ちょいと》家を持つから来てくれって、それから、ずる/\にあゝなったんだろう。」
と、にべも艶もなく、人を馬鹿にしたように、鼻の先で言った。
私は、成程、男と女と一緒になるには、種々《いろん》な風で一緒になるのだから、長田が、そう思えば、それで可いのだが、饗庭が、仮令その場限りのことにしても、折角そう言って、面白くも無い、気持を悪くするような話を和げようとしているのに、また面と向って、そんなことを言う、何という言葉遣いをする人間だろう! と思って、返答の仕様もないから、それには答えず、黙ってまた長田の顔を見たが、お宮のことが忌々しさに気が荒立っているのは分り切っている。そう思うと、後には腹の中で可笑くもなって、怒られもしないという気になった。で、それよりも寧《いっ》そ悄気《しょげ》た照れ隠しに、先達ての、あのしごきをくれた時のことを、面白く詳しく話して、陽気に浮かれていた方が好い、他人《ひと》に話すに惜しい晩であった、と、これまでは、其の事をちびり、ちびり思い出しては独り嬉しい、甘い思い出を歓《たの》しんでいたが、斯う打《ぶ》ち壊されて、荒されて見ると大事に蔵《しま》っていたとて詰らぬことだ。――あゝそれを思えば残念だが、何うせ斯うなるとは、ずっと以前「直ぐ行って聞いて見てやった。」と言った時から分っていたことだ、と種々《いろん》なことが逆上《こみあが》って、咽喉の奥では咽《むせ》ぶような気がするのを静《じっ》と堪《こら》えながら、表面《うわべ》は陽気に面白可笑く、二人のいる前で、前《さっき》言った、しごきをくれた夜《よ》の様を女の身振や声色まで真似をして話した。
[#地付き](明治四十三年四月「早稲田文学」)
底本:「黒髪・別れたる妻に送る手紙」講談社文芸文庫、講談社
1997(平成9)年6月10日第1刷発行
底本の親本:「日本現代文学全集45 近松秋江・葛西善蔵集」講談社
1965(昭和40)年10月
※作品名は底本の親本では『別れた妻に送る手紙』ですが、「本書では、単行本『別れたる妻に送る手紙』(大正二年十月南北社刊)の表記に従った。」と書かれていました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:土屋隆
2004年8月11日作成
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