きは明さないが、一度お前が後始末の用ながらに婆さんの処へ寄って、私の本箱を明けて見たり、抽斗《ひきだし》を引出して見たりして、
「まあ本当に本も大方売って了っている。あの人は何日《いつ》まで、あゝなんだろう。」と言って、それから私の夜具を戸棚から取出して、黴《かび》を払って、縁側の日の当る処に乾して、婆さんに晩に取入れてくれるように頼んで行ったことをも聞いた。
 まあそういうようにして、ちょび/\書籍を売っては、銭《かね》を拵えて遊びにも行った。けれども、それでも矢張し物足りなくって、私の足は一処《ひとところ》にとまらなかった。唯女を買っただけでは気の済む訳がないのだ。私には一人楽みが出来なければ寂しいのも間切《まぎ》れない。
 処がそうしている内に、遂々《とうとう》一人の女に出会《でっくわ》した。
 それが何ういう種類の女であるか、商売人ではあるが、芸者ではない、といえばお前には判断出来よう。一口に芸者でないと言ったって――笑っては可けない。――そう馬鹿には出来ないよ。遊びようによっては随分銭も掛かる。加之《それに》女だって銘々|性格《たち》があるから、芸者だから面白いのばかしとは限らない。
 その時は、多少《いくらか》纏まった銭が骨折れずに入った時であったから、何時もちょび/\本を売っては可笑《おかし》な処ばかしを彷徨《うろつ》いていたが、今日は少し気楽な贅沢が為て見たくなって、一度|長田《おさだ》の友達というので行った待合に行って、その時知った女《の》を呼んだ。そうするとそれがいなくって、他《ほか》な女《の》が来た。それが初め入って来て挨拶をした時にちらと見たのでは、それほどとも思わなかったが、別の間《ま》に入ってからよく見ると些《ちょっ》と男好きのする女だ。――お前が知っている通り私はよく斯様《こん》なことに気が付いて困るんだが、――脱いだ着物を、一寸触って見ると、着物も、羽織も、ゴリ/\するような好いお召の新らしいのを着ている。此の社会のことには私も大抵目が利いているから、それを見て直ぐ「此女《これ》は、なか/\売れる女だな。」と思った。
 よく似合った極くハイカラな束髪に結って小肥な、色の白い、肌理《きめ》の細かい、それでいて血気《ちのけ》のある女で、――これは段々|後《あと》になって分ったことだが、――気分もよく変ったが、顔が始終《しょっちゅう》変る女だった。――心もち平面《ひらおもて》の、鼻が少し低いが私の好きな口の小さい――尤も笑うと少し崩れるが、――眼も平常《いつも》はそう好くなかった。でもそう馬鹿に濃くなくって、柔か味のある眉毛の恰好から額にかけて、何処か気高いような処があって、泣くか何うかして憂いに沈んだ時に一寸々々《ちょいちょい》品の好い顔をして見せた。そんな時には顔が小く見えて、眼もしおらしい眼になった。後には種々《いろん》なことから自暴酒を飲んだらしかったが、酒を飲むと溜らない大きな顔になって、三つ四つも古《ふ》けて見えた。私も「どうして斯様な女が、そう好いのだろう?」と少し自分でも不思議になって、終《しまい》には浅間しく思うことさえもあった。肉体《からだ》も、厚味のある、幅の狭い、そう大きくなくって、私とはつりあいが取れていた。
 で、その女をよく見ると、「あゝ斯ういう女がいたか。」と思った。それが、その女が私の気に染み付いたそも/\だった。そうすると、私の心は最早《もう》今までと違って何となく、自然《ひとりで》に優《やさ》あしくなった。
 静《じっ》と女の指――その指がまた可愛い指であった、指輪も好いのをはめていた――を握ったり、もんだりしながら、
「君は大変綺麗な手をしているねえ。そうして斯う見た処、こんな社会に身を落すような人柄でもなさそうだ。それには何れ種々《いろん》な理由《わけ》もあるのだろうが出来ることなら、少しも早く斯様な商売は止して堅気になった方が好いよ。君は何となしまだ此の社会の灰汁《あく》が骨まで浸込んでいないようだ。惜しいものだ。」
 人間というものは勝手なものだ。斯様な境涯に身を置く人に同情があるならば、私は何《ど》の女に向っても、同じことを言う理由《はず》だが、私は其の女にだけそれを言った。そう言うと、女は指を私に任せながら、黙って聞いていた。
「名は何というの?」
「宮。」
「それが本当の名?」
「えゝ本当は下田しまというんですけれど、此処では宮と言っているんです。」
「宮とは可愛い名だね、え。……お宮さん。」
「えッ。」
「私はお前が気に入ったよ。」
「そうオ……あなたは何をなさる方?」
「さあ何をする人間のように思われるかね。言い当てゝ御覧。」
 そういうと、女は、しお/\した眼で、まじ/\と私の顔を見ながら、
「そう……学生じゃなし、商人じゃなし、会社員じゃなし
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