ように思われてならぬ、と思い詰めれば其様な気がするが、よく考えれば、その吉村という切っても切れぬらしい情夫がある。……自分でも「いけない!」というし、情夫のある者は何うすることも出来ない。と言って、あゝして、あのまゝ置くのも惜しくって心元ない。銭《かね》がうんと有れば十日でも二十日でも居続けていたい。
「あゝ銭が欲しいなあ!」と、私は盗坊《どろぼう》というものは、斯ういう時分にするのかも知れぬ、と其様なことまで下らなく思いあぐんで、日を暮らしていた。
そんなにして自家に独りでいても何事《なん》にも手に付かないし、そうかと言って出歩いても心は少しも落着かない。それで、またしても自動電話に入ってお宮の処に電話を掛けて見る。
「宮ちゃん、お前あんなことを言っていたから、私は本当かと思っていたのに、主婦さんに聞くと、何処にも行かないというじゃないか。君は※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]ばっかり言っているよ。君がいてくれれば僕には好いんだが、あの時は喪然《がっかり》して了ったよ。」と恨むように言うと、
「えゝ、そう思うには思ったんですけれど、種々《いろいろ》都合があってねえ。……それに自家の姉さんも、まあ、も少し考えたが好いというしねえ。……あなたまた入らしって下さい。」
「あゝ、行くよ。」
と、言うようなことを言って、何時まででも電話で話をしていた。行く銭が無い時には、私は五銭の白銅一つで、せめて電話でお宮と話をして虫を堪《こら》えていた。電話を掛けると、大抵は女中か、主婦かが初め電話口に出て、「今日、宮ちゃんいるかね?」と聞くと、「えゝ、いますよ。」と言って、それからお宮が出て来るのだが、その出て来る間の、たった一分間ほどが、私にはぞくぞく[#「ぞくぞく」に傍点]として待たれた。お宮が出て来ると、毎時《いつ》も、眼を瞑《つぶ》ったような静かな、優しい声で、
「えゝ、あなた、雪岡さん? わたし宮ですよ。」と、定ってそう言う。その「わたし宮ですよ。」という、何とも言うに言えない句調が、私の心を溶かして了うようで、それを聞いていると、少し細長い笑窪の出来た、物を言う口元が歴々《ありあり》と眼に見える。
「じゃその内行くからねえ。」と、言って、「左様なら、切るよ。」と、言うと、「あゝ、もし/\。あゝ、もし/\。雪岡さん!」と呼び掛けて、切らせない。此度は、「さよなら! じゃ、いらっしゃいな! 切りますよ。」と、向から言うと、私が、「あゝもし/\。もし/\。宮ちゃん宮ちゃん、一寸々々《ちょいとちょいと》。まだ話すことがあるんだよ。」と何か話すことがありそうに言って追掛《おっか》ける。終《しまい》にはわざと、両方で、
「左様なら!」
「さよなら!」
を言って、後を黙《だま》あっていて見せる。私は、お宮の方でも、そうだろうと思っていた。
そうして交換手に「もう五分間来ましたよ。」と、催促をせられて、そのまゝ惜しいが切って了うこともあったが、後には、あと[#「あと」に傍点]からまた一つ落して、続けることもあった。白銅を三つ入れたこともあれば、十銭銀貨を入れたこともあった。私は、気にして、始終《しょっちゅう》白銅を絶やさないようにしていた。
珍らしく一週間も経って、桜木では、此の間のようなこともあったし、元々|其家《そこ》は長田の定宿のようになっている処だから、また何様《どん》なことで、何が分るかも知れないと思って、お宮に電話で、桜木は何だか厭だから、是非何処か、お前の知った他の待合《うち》にしてというと、それではこれ/\の処に菊水という、桜木ほどに清潔《きれい》ではないが、私の気の置けない小《ちさ》い家があるから、と、約束をして、私は、ものの一と月も顔を見なかったような、急々《せかせか》した心持をしながら、電話で聞いただけでは、其の菊水という家もよく分らないし、一つは沢村という家は何様な家か見て置きたいとも思って、人形町の停留場で降りて、行って見ると、成程|蠣殻町《かきがらちょう》二丁目十四番地に、沢村ヒサと女名前の小い表札を打った家がある。古ぼけた二階建の棟割り長屋で、狭い間口の硝子戸をぴったり締め切って、店前《みせさき》に、言い訳のように、数えられるほど「敷島」だの「大和」だのを並べて、他に半紙とか、状袋のようなものを少しばかり置いている。ぐっと差し出した軒灯に、通りすがりにも、よく眼に付くように、向って行く方に向けて赤く大きな煙草の葉を印《しるし》に描《か》いている。「斯ういう処にいて働《かせ》ぎに出るのかなあ!」と、私は、穢《きたな》いような、浅間しいような気がして、暫時《しばらく》戸外《そと》に立ったまゝ静《そっ》と内の様子を見ていた。
「御免!」
と言って、私は出て来た女に、身を隠すようにして、低声《こごえ
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