声をかけるから、そうしたら脱衣《きもの》を抱えて直ぐ降りてお出でッて。……ちゃんと隠れる処が出来ているの。……今|灯《ひ》を点して見せて貰ったら、ずうっと奥の方の物置室《ものおき》の座板の下に畳を敷いて座敷があるの……」
 そう言って大して驚いてる気色《けしき》も見えぬ。また私も驚きもしなかった。
 やがて廊下を隔てた隣の間でも、ドシ/\と男の足音がしたり、静かな話声がしたり、衣擦《きぬず》れの音がしたりして段々客があるらしい。
 自家《うち》に帰れば猫の子もいない座敷を、手索《てさぐ》りにマッチを擦って、汚れ放題汚れた煎餅蒲団に一人柏葉餅のようになって寝ねばならぬのに斯うして電灯のついた室《へや》に、湯上りに差向いで何か食って、しかも、女を相手にして寝るのだから、私はもう一生|待合《ここ》で斯うして暮したくなった。
「…………。」私は何か言った。
 廊下の足音が偶《たま》に枕に響いた。
「……誰れか来やしないか。……一寸《ちょいと》お待ちなさい。……そら誰れか其処にいるよ……」手真似で制した。警察のやかましいぐらい平気でいるかと思ったら、また存外神経質で処女《きむすめ》のように臆病な性質《ところ》もあった。
 夜が更ければ、更けるほど、朝になればなっても不思議に寝顔の美しい女であった。
 きぬ/″\の別れ、という言葉は、想い出されないほど前から聞いて知ってはいたが元来|堅仁《かたじん》の私は恥ずべきことか、それとも恥とすべからざることか、それが果して、何ういう心持のするものか、此歳になるまで、自分ではついぞ覚えがなかったが、その朝は生れて初めて成程これが「朝の別れ」というものかと懐かしいような残り惜しいような想いがした。
 女が「じゃ切りがないから、もう帰りますよ。」と言って帰って行った後で、女中の持って来た桜湯に涸《かわ》いた咽喉を湿《うるお》して、十時を過ぎて、其家《そこ》を出た。
 午前《ひるまえ》の市街《まち》は騒々しい電車や忙がしそうな人力車《くるま》や大勢の人間や、眼の廻るように動いていた。
 十一月|初旬《はじめ》の日は、好く晴れていても、弱く、静かに暖かであったが、私には、それでもまだ光線が稍強過ぎるようで、脊筋に何とも言いようのない好い心地の怠《だる》さを覚えて、少しは肉体《からだ》の処々に冷たい感じをしながら、何という目的《あて》もなく、唯、も
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