日後に二百二十日を控えてゐるので何となく戸外はざわめいて、駒ヶ岳や双子山にかゝつてゐる水蒸氣は疾風の如く飛んでゐるけれど、日は黄色く照り、庭前の杉や楓は風に搖れながら涼しい蔭を地に印してゐる。私はめづらしく隙間を洩れてくる日光が條文をなして白いものに包まれた輕い夜着に射しかゝるのを知りながら、いつまでも快い夢を貪つてゐた。やがて懷しい湯の香のそこはかとなく立ち上るのを嗅ぎ潔く起き上つて、戸袋に近い雨戸を二三枚繰ると、私の長寢をするのを知つてゐて、遠く庭の彼方に見える折曲つた廊下の先の部屋にゐて蒲團の綿を入れてゐるお秋といふ三十ばかりの質樸な女中は、雨戸の音に私の起き出たのを知つて、ふとこちらを見る。そして私が楊枝を啣へて浴室に入つてゐる間にお秋さんはちやんと床を上げ、座敷を掃き清め、お茶を煎れて飮むばかりにしてある。私は靜かな心持ちになつて香ばしい番茶を啜つてゐると、そこへ彼女は味の好い燒きパンに甘《うま》いバタを付けたのを運んでくる。それが何ともいへず甘い。その時分であつた。ある朝のこと、まだ床の中に眼覺めたまゝでゐると、向うの双子山の麓のところで山を崩して地ならしをしてゐる、岩を摧《くだ》く鐵槌の音が靜かに山に反響してゐるのが長閑に枕にひゞいて來る。私はその音に夢の名殘りから綺麗に覺まされる。その頃であつた。私は駒ヶ岳に登つて見た。駒ヶ岳は前いつたごとく優しい、婦女子でも踏破することのできる山上公園中の主峯である。十五六の小娘などが二三人で四千六百尺の駒ヶ岳や四千七百尺の神山などへ午前に登つて來て、十分自分の健康を滿足せしむるやうな雄々しい運動をしてゐた。私は炎暑のため衰弱し切つた體を物憂さうに持扱ひながら、僅に温泉の附近の山道を散歩してゐると、眞青な白茅に蔽はれた駒ヶ岳の背を九十九折《つづらを》りの山徑を傳うて登つてゆく人の姿が數へられる。私はどんなに其等の人の健康を羨んで見てゐたか知れなかつた。私も早く初秋の風が山の背を渡る頃を待つて身内に元氣が囘復して來たならば、少女でさへあゝして登つてゐる駒ヶ岳の頂を一度は是非とも踏んで見たいものである。蘆の湯五十日の逗留の間そこらの山道といふ山道は殆ど殘る隈なく歩いてみた。たゞ一つ殘るは駒ヶ岳である。
 その日は朝の内は少しく二百二十日前の風が荒れてゐた。けれども清い秋の日は朗かに照り、浴舍のすぐ背に聳えてゐる寶藏岳の木々は細い梢の尖までも數へられる程に大氣は澄んで、黄金色の日光が其等の青い葉々に透きとほるやうに美しく漲つてゐる。天地渾然として瑠璃玉の如く輝いてゐる。駒ヶ岳にも今日は風に吹き拂はれてか、めづらしく雲霧がかかつてゐない。それに自分は一昨日までに書く物も一段落を告げてこゝ二三日は頭を休め、放心したやうになつて居ようとおもつてゐる時である。よく晴れた日は書く物に精神を勞してゐる、休養してゐる時には山が曇つてゐたり、雨が降つてゐたりして果さなかつたが、今日は兩方都合の好い日である。が、少し風が強過ぎるやうである。それで女中のお秋に相談しようとおもうて呼鈴を押すと、お秋の代りに物靜かな老婢が廊下を歩いて來て、用を伺つた。
「今日これから駒ヶ岳に登らうと思ふんですが、すこし風があるやうですが、どんなものでせう。」
 さういつて訊くと、老婢は、
「左樣でございますねえ。」といつて、外の木々の風に搖れてゐるのを眺めながら、思案顏にこちらを向いて、
「今日はすこし風が強過ぎるやうでございますから又の日になすつた方がよろしうございませう。下でこの通りですと、山の上はずつと風が強うございますから、今日はお止めになつた方がお宜しうございます。」
 人柄さうな老婢は忠實にさういつて、きつぱり止めた。
「ぢや止しませう。」
 と云つて、私は其の時は斷念した。そしてまた暫くして、やがてお秋が運んで來た晝飯を喫しながら庭の方を眺めてゐると、立木などは先刻と同じやうにやつぱり風にざわめいてはゐるが、午前にくらべて稍※[#二の字点、1−2−22]靜かになつたやうである。日光は相變らず朗かに輝いて、そこらの庭木や芝生などが金色を帶びてゐるかのやうに思はれる。私の心はまた動いた。
「お秋さん、先刻駒ヶ岳に上らうとおもつて相談したら、風があるので止めた方がいゝといふので止めたんだが、どうだらうねえ。先刻よりか少し惡くなつたやうだが。」
 お秋は外を眺めながら、
「このくらゐなら大丈夫でございます。ついすぐですもの、ぢきに上れますよ。」
 と事もなげにいふ。彼女等は昨日の朝私がまだ寢てゐる間に、お客や番頭や女中など七八人の多勢で上つて來たのである。
「いつていらつしやいまし。それは方々がよく見えて、いゝ景色でございますよ。昨日の朝は富士山がよく見えました。あんなに富士山のよく見えることはめづらしいつて番頭さんがさういつてゐました。それは面白うございましたよ。皆で勝手にいろんな面白いことをいひながら。」
 それでまた私は心動いて、箸を置くと嬉々《いそ/\》しながら渇を覺えた時の用意にと、大きな梨を二つ懷に入て例の櫻のステッキを杖ついて、湯の花澤へゆく道から左に折て急がぬやうに登つていつた。道は暫く淺い溪の底を歩いて左右から蔽ひかかつた苅萱の間を迂囘しつゝ進んでゆく。ところ/″\に粗雜な休み臺がしつらへてあつたり、道の急なところには丸太を横へて磴道を設けてあつたりする。私は三歩にしては憩ひ、五歩にしては振顧つて上つて來たあとを眺めしてゐるうちに次第に自分のゐる處は高くなつていつた。そして知らぬ間に浴舍の直ぐ背後に聳つ寶藏岳は自分の脚下になつてゐた。自分の位地が高くなるにつれて四邊の峯々がまた漸次高標を増し、雄偉の度を加へて來た。双子山、聖ヶ岳、明星ヶ岳、明神ヶ岳は折から午後の秋の陽を全山に浴びて、愈々靜寂の容を示してゐる。山下の坦々たる一と筋の新道は双子山の裾をめぐつて長いリボンを展べたやうに遠く、駒ヶ岳の尾を引いてゐる彼方の高原の果にいつて沒してゐる。尚ほ見返り/\段々登つてゆくに從ひ、蘆の湖の水はすぐ右方の眼下に開けて來た。午後の日光を浴びて銀灰色に輝いてゐる水の上を幾つかの短艇《ボート》が帆を孕ませて白鳥の如く動いてゐる。塔ヶ島の離宮、箱根町の人家、例の美しい八町の杉並木は沈んだやうな暗緑色を刷いて連なつてゐる塔ヶ島の蔭になつてゐるその邊は水の色も日光を反射しないので硫酸銅のやうな美しい紫色を湛へてゐる。山の色も水の色もそこら中の物が貴い顏料を落したやうに悉く翠緑の單色に彩られてゐる。
 更に左方に眸を轉ずると、相模灘はまるで廣重の繪を展いたやうな濃藍色をして眼界に擴がつてゐる。小田原、國府津、大磯、それから江の島から逗子、葉山、三浦半島にまでつゞく津々浦々が双眸に集つてくる。大山、足柄山、金時山の峯巒が遠近に從つて幾色にも濃淡を劃しながら秋の陽を受けて桔梗のやうな色さま/″\に浮びいでゝゐる。私はまたぢつと其等の遠景に眼を遊ばして一と息吐いた。清澄な山の上の風は心地よく汗ばんだ肌をさら/\と吹いていつた。夏の初になるとそこら中眞青な夏草の上に點々として白い山百合が咲く。今は丁度その白い百合の花が靜かな山の夕暮れの中に瞬いてゐる時分である。かうして今身はそこから百里を隔つてる京の町の中にゐても香氣の高いその百合の香が聯想作用で生々と私の臭官を刺激するやうである。
[#地から1字上げ](大正七年六月卅日京都安井の寓にて)



底本:「現代日本紀行文学全集 東日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
※巻末に1918(大正7)年6月30日記の記載あり。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2004年5月1日作成
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