とした容を仰ぐに最もいゝ。私は双子山を眺めながら箱根町を歩いてみた。
 日本人の浴客が八月一ぱいで殆ど退き揚げていつてからも西洋人は九月の十日頃まではこの湖畔に殘つてゐるのであるが、それすらもう殆ど全部山を降りてしまつて眞夏の頃の賑かさはなくなつて、湖水の上にも舟の影は絶えてゐる。私は、ふと歸途は舟で元箱根までかへつてみる氣になつて、船頭を呼んだ。船頭は、この間からの雨で、もう舟などに乘る客はないだらうといつて舟は悉く水涯から遠く砂の上に曳き上げてあつたのを、夫婦がゝりで丸太棒を轉がして水に浮べた。莚と毛布とを持つて來て坐るところを設けてくれた。私は、近いところだからそれには及ばぬと辭退しつゝ舟に乘つて横木のうへに腰を掛け、舟が漸次沖の方へ滑つてゆくにつれて四圍の風景を顧望してゐた。夏の頃とちがつた湖のうへは遠く澄み、駒ヶ岳の裾を吹き下して來る風はもう冷いほど強く肌に沁みた。塔ヶ島の水際に續いたさゞれ石を洗つてゐる水の色も先達て中とはちがつてひどく秋寂びてゐる駒ヶ岳の裾はそのあたりの湖の上から眺めるのが最もいゝ。その長く引いた裾根が蘆の湖の水に達《とゞ》かうとする稍※[#二の字点、1−2−22]平な處に、岩崎男爵家のコッテージ風の別莊がある。丁度スチュヂオなどの繪画雜誌で見る如きピクチュアエスクな家造りで、初め、あれが岩崎男爵家の別莊と聞いた時には、すぐ吾々の平生の心の習慣から富豪の獨占を嫉み憤る念がちよいと頭を擡げかけたけれど、それも仕方がないと稍※[#二の字点、1−2−22]諦め心地になりつゝ尚ほ凝乎と眺めてゐると、もしこのコッテージがなかつたならば、荒蓼として見えるべき箱根の風景が、寧ろそれあるがために自然の景致に一點の情味を加へて、却つて親しみのあるものに感じられて來るのである。其等の風光に見惚れてゐるうちに舟はいつの間にか塔ヶ島の鼻をめぐつて元箱根から八町の杉並木を一眸に見渡されるところに進んできた。私はその時見たくらゐ杉の色の美しさを未だ嘗て見たことがなかつた。日光の東照宮山内の杉の色の美しさも忘れることが出來ぬのであるが、しかしその時湖の上からある距離を置いて遠く眺めた蘆の湖畔の杉の色の美しさといふものはない。どんな天才が丹青の妙技を凝しても、その杉の色の美はとても人工で描き出せるものではないと思ひながら、私は飽くことなく、ぢつとその杉の美に見惚れてゐた。その間に舟は段々元箱根の方に進んでゆくにつれて一としきり杉並木の方にも段々近寄りつゝ通つていつた。さうなると今までの美しさは恰も幻影のごとく次第に減じてきた。元箱根の上の方に突兀としてローマンチックな情景を點出してゐた双子山も段々近づくにつれて、その怪奇な姿から、やゝ平凡な山の形に變つてきた。
 私がもし箱根山彙中の峯々によつて異る奇趣妙景について名を選するならば駒ヶ岳は前にいつたやうに夏の姿をもつて最も優れりとする。双子山もこれを蘆の湯の方の西北から仰いだのでは何等の奇景がない。それに反して南面舊街道の溪谷から見上げるか、或は蘆の湯より鷹巣山の方に向つて降つてゆく時、道の右側須雲川の大溪谷に面して長く裾根を曳いてゐる方面が最も雄偉の感じを與へる。それと箱根町の湖畔からやゝ遠く距離を置いて仰いだローマンチックな姿である。新道から須雲川の大溪谷に向つた方面には特に雲嵐矢よりも速く上騰してゐる時を選ぶ。
 そして駒ヶ岳の晴天に仰ぐべき山であるに反し、蘆の湯方面より見た聖ヶ岳は、私は殊に雨後の景を好むのである。雨後の空がまだどんより灰白色に曇つてゐる時三千尺の聖ヶ岳は須雲川の溪谷の彼方に屏々として眞鯉の背の如き濃藍色の山膚をくつきりと浮出してゐる。そんな時には眞綿の如き純白の雲が腰から下を横樣に棚曳いたまゝ凝乎と動かずにゐる。それを見てゐると自から氣が澄んで靜かな心持ちにならしめる。さういふ時に耳の近くで蜩の晩涼を告ぐる銀鈴が爽かに響くと、もう堪らなく心が澄んで、名稱し難い希望と感興が湧いてくる。
 八月末頃になると駒ヶ岳神山の裾から笛塚山、蓬莱山にかけて見る限り一面の茅原が可愛い淡紅の薄の穗を抽きそめる。それにまじつて女郎花、兜菊、野菊、米蓼、萩などが黄紫とりどりの色彩を添へる。去年蘆の湯にゐる間私の最も多く散歩した處は前いつたやうに双子山の麓を通つて蘆の湖へ降りてゆく新道、蘆の湯から舊道の辨天山の下を通つて池尻に降り茶屋の前で一度新道に出て、それから新道に即《つ》いたり離れたりしながら翠緑鮮かな松林の中を穿つて通じてゐる舊道の細徑を傳うて小涌谷に達する間。それから鷹巣山、笛塚山などへもよく上つていつた。松林の中を分けて舊道を小涌谷の方に歩いて來ると、もうそこら中に女郎花が點々黄色い花をつけてゐる。湯の宿にも客はめつきり減り、道を歩いてゐる人影も眞夏の頃と違ひ甚だ稀に、一山|闃《げき》として、氣爽かに、心自から澄み、神冴え何を思うてみても、それが何處までゞも深くふかく考へることが出來る。東京にゐたならば僅かに四町か五町の道を歩いても脚よりも先づ神經の方が四圍の物のために疲れを感ずるのに、山の中では嘗てそんな憂ひはない。私は例の櫻のステッキを杖つきながら、松林から吐き出す強いオゾンの香を呼吸して、細徑を穿つて歩いてゆく、段々下へゆくにつれて、今まで自分と同じ高さにゐた笛塚山、鷹巣山は次第に高くたかくなり、近くから見ると平凡であつた山の形もそれとゝもに何かしら尊い威容を備へて頭の上から臨んでゐる。笛塚山は後三年の役に、新羅三郎義光が、兄の義家が清原武衡と戰ひ利あらざるを聞き、己れの官職を辭して遠く奧州の地に赴き援けんとする時、義光が笙の師豐原時元の子時秋が、乃父の祕曲を傳へてゐる義光の後を迫ふて足柄山に到り、一夜明月の下に山上に楯を布いて坐し、笙を吹奏して祕曲を授かつた。その古跡として傳へられてゐるところである。果してその笛塚山が楯を布いた跡かどうかは知らないが、笛塚といはれてゐる處には大きな岩石が重なり合つてゐて上が三疊敷ぐらゐに平つたくなつてゐる。私は苅萱の穗波をわけて雲霧の美しい好晴の日には必ずそこまで登つていつた。鷹巣山は昔し小田原北條氏の出城のあつた跡と言ひつたへられてゐる。白茅ばかりおひ茂つたその山の背を淺間山、城山、湯坂山と、どこまでも傳うてゆくと一里半ばかりで徑は獨りでに湯本まで通じてゐる。湯本から蘆の湯に達するにはこの道を往くのが最も捷徑である。これは湯坂道といつて、昔の間道である。秋晴の日などに展望を恣にしやうと思ふなら、その峯を傳うてゆくに越したことはない。湯本から順路を宮の下に取つてゆくと、溪ばかりを往くことになつて眺望が利かない。然るに鷹巣山の背を歩いてゆくと、殆ど箱根山彙の全景を双眸に集めることができる。
 それから前いつた道に戻つて小涌谷におりてゆく臺の茶屋から小涌谷の平、二の平、強羅の平を越して遠く明神ヶ岳に溪の底に群つてゐる宮城野の村を見下ろしたのも懷かしい。池尻か、臺の茶屋に熄ひながら初秋の冷涼そのものゝ如き梨の汁を啜りつゝ、すぐ眉の上に聳つ鷹巣山と峯つゞきなる宮の下の淺間山と二の平と強羅の傾斜との彼方に早川の溪が抉つたやうに深く掘れてゐる。その上に明神ヶ岳は屏々として、濃藍色に暮れてゆかうとしてゐる。明日の晴を報ずる白い雲の千切れが刻々|茜《あかね》色に夕映てゐる碧空に向つて飄々として上騰し、金時山、足柄山の方へ進んでゆく、池尻の茶屋の老婆は
「毎日々々よく降りましたが、明日はどうやらお天氣らしうございます。雲の具合が大變よろしうございます。」といふ。
 さういふ言葉にはもう何十年の昔しからこの山に住み馴れた經驗から雲の動靜や暮れゆく山の色、空の夕燒の模樣で天候を卜する知識を得てゐるらしい。
「あゝ、あの雲はお天氣らしい雲だねえ。」
「左樣でございますよ。あの雲が明神ヶ岳のところをあゝ西へ上つてゆくと明日はお天氣がよろしうございます。」
 そんな話を交はしてゐるうちにも山は黒く靜に暮色に包まれてゆく。それとともにすぐ眼の下の小涌谷あたりに丁度夏の宵の星くづを數へるやうに彼方にも此方にも燈火が瞬きをはじめる。一番遠くの谷の底に暮靄の中に微かに見えてゐるのは宮城野の人家の灯である。吾々がたゞ見てさへ懷かしい。況してその村から、家にゐれば氣まゝにしてゐられる親の傍をはなれて、蘆の湯や小涌谷邊りの旅館に奉公してゐる村の娘等が、山の上から遠くの溪の底に親里の團欒の灯を眺めて胸を搾る如《やう》に懷しがるのも無理はない。東京や横濱さへも知らず、中には小田原あたりさへ、生れて一度か二度しか活動寫眞の芝居を觀にいつたことがないくらゐ、生れてから死ぬる迄一生山の中を降りてゆかず、明神ヶ岳の麓から朝に夕に駒ヶ岳や早雲山にかゝる雲を眺めて暮らす彼女等にとつては、わづか一里にも足らぬ山の上に來てゐながら親里が死ぬほど戀しいのである。夏場の急がしい最中を働くと、八月の末にはもう暇をもらつて歸つてゆくことばかりを考へてゐる。そして客の減つてゆくにつれて彼等も一人づつ下つてゆく。
 山は靜かに暮れていつた。冷いくらゐの涼味は茶屋が軒先の筧の水から湧いて、清水に涵《ひた》した梨の味にも秋はもう深かつた。私はそこから遠い新道を迂囘するか、或はすぐそこの庭先から急坂を攣ぢて辨天山の脇の舊道を登つて歸つて來る。尾花が長く穗を抽いて道の兩脇から夕暮の中に微白く搖いでゐる。部屋にかへつて、手拭をさげて浴室へおりてゆくと懷かしい硫黄の香が鼻を衝いてくる。人によつてはこの硫黄の香をひどく嫌ふ者があるが、私にはそれが何とも云へずなつかしい。朝目覺めて楊枝を啣へて浴室に入つてゆく時、昨夜の夢の名殘りを洗ひ清め、夜遲くまで靜に讀書などしてこれから寢に就かうとする時は、自から安かな眠を誘ふ。……さうして私は湯に浴つて散歩の輕い疲れを醫するのである。
 あまり遠くへ散歩すると心地よく疲れて、書き物をする前に眠くなつてしまふことがあるので、筆を執つてゐる間はなるべく近い山の上を歩いてゐた。さういう時にはいつも辨天山へ上つていつた。山が雨のあとで靜に濕つてゐながら水蒸氣のないといふやうな日には殊に遠くの山の色が濃く美しくなつて見えた。明星ヶ岳、明神ヶ岳の上に尚ほ遠く高く見えてゐるのは足柄、愛甲諸郡につゞく北相模の山々である。ヘルメット形の大山も見える。好く晴れた日の下には其等の山々が遠近になつて濃淡を劃し、丁度品質の良いインキを溶かして塗つたやうである。横山大觀の雲去來でも寺崎廣業の白馬八題でもこの眞景の秋山雨後には到底企て及ばない。
 八月の末をも待たないで大抵の浴客は、家族を連れた多勢の客でも、東京や横濱の繁華な都會から來てゐては三十日もゐると山の眺め、温泉の香にも飽いてしまつて、まだ殘暑の劇しい八月の二十日頃にぞろ/\行李をしまつて降りていつてしまふ。いつた當座は、百に近い部屋がいづれも滿員で、私は廣い庭を隔つた遠くの離家に、東京の某中等學校の校長なる老紳士と室を隣して起臥してゐたが、やがてその老紳士も歸つてゆき、ほかの部屋も段々明いてきたので、私は受持ちの女中が寂しがるのを察して本館に近い別館の一室に移つた。其處は今までよりも一層心の落着くところであつた。長い夏の間東京にゐて極度に疲勞してゐた私の神經衰弱もそこにゐる間にだん/\元氣を囘復して來た。始終不眠症に惱まされてゐたのが、山上の空氣の清澄なると適度の散歩と温泉の效果とのため熟睡を得られるやうになつた。大きな建物の長い廊下を幾曲りかした果ての座敷に連日孤座してゐる私を見て、かゝりの女中は、御飯の給仕に來た時、
「旦那、お寂しくはないんですか、ひとりぽつんとして。」
 といつて、氣の毒さうな眼をして私の顏を眺める。
「いや、ちつとも寂しくはない。」
 といつて笑ふ。しかしその微笑には深い寂寞を湛へてゐたこととおもふけれども、その寂しみは私の好んで選んでゐる境地なのである。隣の部屋や廊下に跫音や話聲がせぬので私は伽藍のやうな大きな建て物をわがもゝの如く獨占していつまでも朝寢をすることが出來る。
 九月の七八日頃、二三
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