その水蒸氣の湧くのを見てゐるのも夏の高山生活の一興である。蘆の湯は箱根七湯の中でも最も高い位地にある。その爲め蘆の湖から吹き送る濕氣が多くていけないなどゝいふ者があるが、併しその相模灘から湧き上つてくる水煮氣が刻々千變萬化の奇趣妙景を盡しつゝやがて雲となり溪を埋め、峯を這ひ大空を蔽うてゆく有樣を見ようとすれば蘆の湯に足を逗めてゐなければならぬ。それは蘆の湯のある處が箱根山彙中の最も展望に都合の好い位地にあるからだ。蘆の湯から一里ばかり下の中腹にある小涌谷《こわくだに》や底倉、宮の下などは旅館も完備してゐて入湯するには何斯《なにか》が便利ではあるが散歩はいつも溪の底の單調な一と筋道に限られてゐる。そこから仰ぐ明星ヶ岳、明神岳の眞青な夏の姿も美しくないことはないが眼界は上の方に比べてひどく狹められてゐる。小涌谷まで登ると眺望は底倉あたりよりは遙に遠く展けてくる。けれども、蘆の湯附近の峯々の、相模灘の煙波を遠く眺めうる形勢の地勢に比ぶべくもない。國府津、大磯から江の島につづく津々浦々に打寄する波頭は丁度白銀の蛇の蜿れるごとく、靜に眸を澄すと三浦半島の長嘴は淡藍色の影を遠く雲煙漂渺の境に曳き、
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