んがさういつてゐました。それは面白うございましたよ。皆で勝手にいろんな面白いことをいひながら。」
 それでまた私は心動いて、箸を置くと嬉々《いそ/\》しながら渇を覺えた時の用意にと、大きな梨を二つ懷に入て例の櫻のステッキを杖ついて、湯の花澤へゆく道から左に折て急がぬやうに登つていつた。道は暫く淺い溪の底を歩いて左右から蔽ひかかつた苅萱の間を迂囘しつゝ進んでゆく。ところ/″\に粗雜な休み臺がしつらへてあつたり、道の急なところには丸太を横へて磴道を設けてあつたりする。私は三歩にしては憩ひ、五歩にしては振顧つて上つて來たあとを眺めしてゐるうちに次第に自分のゐる處は高くなつていつた。そして知らぬ間に浴舍の直ぐ背後に聳つ寶藏岳は自分の脚下になつてゐた。自分の位地が高くなるにつれて四邊の峯々がまた漸次高標を増し、雄偉の度を加へて來た。双子山、聖ヶ岳、明星ヶ岳、明神ヶ岳は折から午後の秋の陽を全山に浴びて、愈々靜寂の容を示してゐる。山下の坦々たる一と筋の新道は双子山の裾をめぐつて長いリボンを展べたやうに遠く、駒ヶ岳の尾を引いてゐる彼方の高原の果にいつて沒してゐる。尚ほ見返り/\段々登つてゆくに從ひ、蘆の湖の水はすぐ右方の眼下に開けて來た。午後の日光を浴びて銀灰色に輝いてゐる水の上を幾つかの短艇《ボート》が帆を孕ませて白鳥の如く動いてゐる。塔ヶ島の離宮、箱根町の人家、例の美しい八町の杉並木は沈んだやうな暗緑色を刷いて連なつてゐる塔ヶ島の蔭になつてゐるその邊は水の色も日光を反射しないので硫酸銅のやうな美しい紫色を湛へてゐる。山の色も水の色もそこら中の物が貴い顏料を落したやうに悉く翠緑の單色に彩られてゐる。
 更に左方に眸を轉ずると、相模灘はまるで廣重の繪を展いたやうな濃藍色をして眼界に擴がつてゐる。小田原、國府津、大磯、それから江の島から逗子、葉山、三浦半島にまでつゞく津々浦々が双眸に集つてくる。大山、足柄山、金時山の峯巒が遠近に從つて幾色にも濃淡を劃しながら秋の陽を受けて桔梗のやうな色さま/″\に浮びいでゝゐる。私はまたぢつと其等の遠景に眼を遊ばして一と息吐いた。清澄な山の上の風は心地よく汗ばんだ肌をさら/\と吹いていつた。夏の初になるとそこら中眞青な夏草の上に點々として白い山百合が咲く。今は丁度その白い百合の花が靜かな山の夕暮れの中に瞬いてゐる時分である。かうして今身はそこから百里を隔つてる京の町の中にゐても香氣の高いその百合の香が聯想作用で生々と私の臭官を刺激するやうである。
[#地から1字上げ](大正七年六月卅日京都安井の寓にて)



底本:「現代日本紀行文学全集 東日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
※巻末に1918(大正7)年6月30日記の記載あり。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2004年5月1日作成
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