てゐる。明日の晴を報ずる白い雲の千切れが刻々|茜《あかね》色に夕映てゐる碧空に向つて飄々として上騰し、金時山、足柄山の方へ進んでゆく、池尻の茶屋の老婆は
「毎日々々よく降りましたが、明日はどうやらお天氣らしうございます。雲の具合が大變よろしうございます。」といふ。
 さういふ言葉にはもう何十年の昔しからこの山に住み馴れた經驗から雲の動靜や暮れゆく山の色、空の夕燒の模樣で天候を卜する知識を得てゐるらしい。
「あゝ、あの雲はお天氣らしい雲だねえ。」
「左樣でございますよ。あの雲が明神ヶ岳のところをあゝ西へ上つてゆくと明日はお天氣がよろしうございます。」
 そんな話を交はしてゐるうちにも山は黒く靜に暮色に包まれてゆく。それとともにすぐ眼の下の小涌谷あたりに丁度夏の宵の星くづを數へるやうに彼方にも此方にも燈火が瞬きをはじめる。一番遠くの谷の底に暮靄の中に微かに見えてゐるのは宮城野の人家の灯である。吾々がたゞ見てさへ懷かしい。況してその村から、家にゐれば氣まゝにしてゐられる親の傍をはなれて、蘆の湯や小涌谷邊りの旅館に奉公してゐる村の娘等が、山の上から遠くの溪の底に親里の團欒の灯を眺めて胸を搾る如《やう》に懷しがるのも無理はない。東京や横濱さへも知らず、中には小田原あたりさへ、生れて一度か二度しか活動寫眞の芝居を觀にいつたことがないくらゐ、生れてから死ぬる迄一生山の中を降りてゆかず、明神ヶ岳の麓から朝に夕に駒ヶ岳や早雲山にかゝる雲を眺めて暮らす彼女等にとつては、わづか一里にも足らぬ山の上に來てゐながら親里が死ぬほど戀しいのである。夏場の急がしい最中を働くと、八月の末にはもう暇をもらつて歸つてゆくことばかりを考へてゐる。そして客の減つてゆくにつれて彼等も一人づつ下つてゆく。
 山は靜かに暮れていつた。冷いくらゐの涼味は茶屋が軒先の筧の水から湧いて、清水に涵《ひた》した梨の味にも秋はもう深かつた。私はそこから遠い新道を迂囘するか、或はすぐそこの庭先から急坂を攣ぢて辨天山の脇の舊道を登つて歸つて來る。尾花が長く穗を抽いて道の兩脇から夕暮の中に微白く搖いでゐる。部屋にかへつて、手拭をさげて浴室へおりてゆくと懷かしい硫黄の香が鼻を衝いてくる。人によつてはこの硫黄の香をひどく嫌ふ者があるが、私にはそれが何とも云へずなつかしい。朝目覺めて楊枝を啣へて浴室に入つてゆく時、昨夜の夢の名殘りを洗ひ清め、夜遲くまで靜に讀書などしてこれから寢に就かうとする時は、自から安かな眠を誘ふ。……さうして私は湯に浴つて散歩の輕い疲れを醫するのである。
 あまり遠くへ散歩すると心地よく疲れて、書き物をする前に眠くなつてしまふことがあるので、筆を執つてゐる間はなるべく近い山の上を歩いてゐた。さういう時にはいつも辨天山へ上つていつた。山が雨のあとで靜に濕つてゐながら水蒸氣のないといふやうな日には殊に遠くの山の色が濃く美しくなつて見えた。明星ヶ岳、明神ヶ岳の上に尚ほ遠く高く見えてゐるのは足柄、愛甲諸郡につゞく北相模の山々である。ヘルメット形の大山も見える。好く晴れた日の下には其等の山々が遠近になつて濃淡を劃し、丁度品質の良いインキを溶かして塗つたやうである。横山大觀の雲去來でも寺崎廣業の白馬八題でもこの眞景の秋山雨後には到底企て及ばない。
 八月の末をも待たないで大抵の浴客は、家族を連れた多勢の客でも、東京や横濱の繁華な都會から來てゐては三十日もゐると山の眺め、温泉の香にも飽いてしまつて、まだ殘暑の劇しい八月の二十日頃にぞろ/\行李をしまつて降りていつてしまふ。いつた當座は、百に近い部屋がいづれも滿員で、私は廣い庭を隔つた遠くの離家に、東京の某中等學校の校長なる老紳士と室を隣して起臥してゐたが、やがてその老紳士も歸つてゆき、ほかの部屋も段々明いてきたので、私は受持ちの女中が寂しがるのを察して本館に近い別館の一室に移つた。其處は今までよりも一層心の落着くところであつた。長い夏の間東京にゐて極度に疲勞してゐた私の神經衰弱もそこにゐる間にだん/\元氣を囘復して來た。始終不眠症に惱まされてゐたのが、山上の空氣の清澄なると適度の散歩と温泉の效果とのため熟睡を得られるやうになつた。大きな建物の長い廊下を幾曲りかした果ての座敷に連日孤座してゐる私を見て、かゝりの女中は、御飯の給仕に來た時、
「旦那、お寂しくはないんですか、ひとりぽつんとして。」
 といつて、氣の毒さうな眼をして私の顏を眺める。
「いや、ちつとも寂しくはない。」
 といつて笑ふ。しかしその微笑には深い寂寞を湛へてゐたこととおもふけれども、その寂しみは私の好んで選んでゐる境地なのである。隣の部屋や廊下に跫音や話聲がせぬので私は伽藍のやうな大きな建て物をわがもゝの如く獨占していつまでも朝寢をすることが出來る。
 九月の七八日頃、二三
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