めつゝ、舊東海道に沿うて車を進め、聖ヶ岳と鷹の巣山との中腹を掩ひ双子山の裾を這ひ、肩を隱し倍々《ます/\》奔騰して蘆の湯の空を渡り、駒ヶ岳神社に向つて突進する。それが雨後の濕つた天氣の日であると、白い雲霧は丁度深い水の底に澄んでゐる眞鯉の背の如き濃藍色をした聖ヶ岳の中腹を靜に搖曳してゐる。
 夕陽が駒ヶ岳の彼方に沈んでゆく頃の山々の美しさといふ者はない。駒ヶ岳は灰白色の雲霧に隱れてしまつて、日頃の懷しい姿はどこにあるかさへ分らない。太陽も雲嵐の奧に影を沒して、たゞ僅に微薄の白光を洩してゐるので、あのあたりにゐるといふことを思ふばかりである。そして、ところどころ煙霧の稀薄になつたところに、まるで無數の金粉を播き散らしたやうな夕映えが水蒸氣となつて煙り、日の射さない處は凝乎と不動の姿勢でゐるかと思はれるやうな雲霧もその實非常な急速力で盛に渦卷きつつ奔騰をつづけてゐるのであることが分る。さうして稍※[#二の字点、1−2−22]暫く見詰めてゐるうちに、どうかすると深い雲霧の中から山の一角を微に顯はすことがある。この時の駒ヶ岳は平常好晴の日に仰ぐ駒ヶ岳とは全く違つた非常な神祕なものゝのやうに思はれることがある。
 それに反して好く晴れた日の駒ヶ岳は清楚な感じがある。笛塚山または稍※[#二の字点、1−2−22]遠く離れて鷹巣山あたりから眺めると薄や刈萱などの夏草に掩はれた眞青な單色を遮ぎる一木もない、大きなヘルメットの如き圓い山の膚に丁度編靴の紐のやうな九十九折りせる山徑が裾から頂上まで通じてゐて、眞白い服裝を西洋人の男女がそこを登つてゆくのが小さく認められる。蘆の湯から頂上まで一里半。婦人や子供でも午前中に行つて來られる。少しの危險のない、優しい山である。そこに登ると展望は更に大きい。富士山は手に取るやうにすぐ西北の空に聳つてゐる。眼の下には蘆の湖の水が碧く湛へてゐる。が、駒ヶ岳は東に向いた方を小涌谷から登つて來る道から眺めたよりも、蘆の湯から双子山の裾をめぐつて蘆の湖の方におりてゆくその途上より仰ぐのが最も優れてゐる。丁度蘆の湖の東岸に沿うて長く裾を曳いてゐるその傾斜が今歩いてゐる往還のところまで緩い傾斜の一線を引いてゐる。好く晴れた日でも紗のやうな輕い浮雲を頂邊に着けてゐることがある。少し曇り勝ちの日だと直ぐ雲霧に被れて蘆の湖から湧き上る水蒸氣が丁度腰から肩のあたりを疾風
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