に、一山|闃《げき》として、氣爽かに、心自から澄み、神冴え何を思うてみても、それが何處までゞも深くふかく考へることが出來る。東京にゐたならば僅かに四町か五町の道を歩いても脚よりも先づ神經の方が四圍の物のために疲れを感ずるのに、山の中では嘗てそんな憂ひはない。私は例の櫻のステッキを杖つきながら、松林から吐き出す強いオゾンの香を呼吸して、細徑を穿つて歩いてゆく、段々下へゆくにつれて、今まで自分と同じ高さにゐた笛塚山、鷹巣山は次第に高くたかくなり、近くから見ると平凡であつた山の形もそれとゝもに何かしら尊い威容を備へて頭の上から臨んでゐる。笛塚山は後三年の役に、新羅三郎義光が、兄の義家が清原武衡と戰ひ利あらざるを聞き、己れの官職を辭して遠く奧州の地に赴き援けんとする時、義光が笙の師豐原時元の子時秋が、乃父の祕曲を傳へてゐる義光の後を迫ふて足柄山に到り、一夜明月の下に山上に楯を布いて坐し、笙を吹奏して祕曲を授かつた。その古跡として傳へられてゐるところである。果してその笛塚山が楯を布いた跡かどうかは知らないが、笛塚といはれてゐる處には大きな岩石が重なり合つてゐて上が三疊敷ぐらゐに平つたくなつてゐる。私は苅萱の穗波をわけて雲霧の美しい好晴の日には必ずそこまで登つていつた。鷹巣山は昔し小田原北條氏の出城のあつた跡と言ひつたへられてゐる。白茅ばかりおひ茂つたその山の背を淺間山、城山、湯坂山と、どこまでも傳うてゆくと一里半ばかりで徑は獨りでに湯本まで通じてゐる。湯本から蘆の湯に達するにはこの道を往くのが最も捷徑である。これは湯坂道といつて、昔の間道である。秋晴の日などに展望を恣にしやうと思ふなら、その峯を傳うてゆくに越したことはない。湯本から順路を宮の下に取つてゆくと、溪ばかりを往くことになつて眺望が利かない。然るに鷹巣山の背を歩いてゆくと、殆ど箱根山彙の全景を双眸に集めることができる。
それから前いつた道に戻つて小涌谷におりてゆく臺の茶屋から小涌谷の平、二の平、強羅の平を越して遠く明神ヶ岳に溪の底に群つてゐる宮城野の村を見下ろしたのも懷かしい。池尻か、臺の茶屋に熄ひながら初秋の冷涼そのものゝ如き梨の汁を啜りつゝ、すぐ眉の上に聳つ鷹巣山と峯つゞきなる宮の下の淺間山と二の平と強羅の傾斜との彼方に早川の溪が抉つたやうに深く掘れてゐる。その上に明神ヶ岳は屏々として、濃藍色に暮れてゆかうとし
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