の動悸を抑えるようにしてそのまま路次を出て来た。
しかし、もう、そうなると、今までのように、女の気を測りかねて、差し控えてばかりいられなくなった。何とかして家《うち》の中へはいり込んでゆく方法はないものかとさまざまに心を砕きながら、好い機《おり》の来るのを待っていた。すると、いつもの通り夜九時ごろになって※[#「木+靈」、第3水準1−86−29]子窓の下に立って聞くと、めずらしい人が来ていると思われて男の話し声がする。はっと、私は胸を躍らしながら、じっと耳を澄ますと、来ているのは一人だけでないと思われて女の話し声も交っている。どんなことを話すかとなお聞いていると、
「ほんならもう帰りましょうか」と四、五十ばかりの女の声がして、
「ああ帰りましょう」と、それに応ずる男の声がする。その晩は家《うち》の中も明るい。それで急いでまたそっと格子に取りついて伸び上がって、ちらと家《や》の内を窺《うかが》うと、一番奥の、たしか六畳の座敷に、二、三人の客がちょうど今立ち上がって帰ろうとするところである。私は急いで格子を滑《すべ》り下りて、すぐ左手の隣りの家《うち》ではまだ潜戸《くぐり》を閉めずにあったので、それを幸いと、そこの入口に身を忍ばせて上《あが》り框《かまち》に腰を掛けながら、女の家から人の出てゆくのをやり過していると、
「えらい御馳走《ごちそう》さんどした」と口々に礼をいって、何か彼か陽気な調子で話しながら、ぞろぞろ出て来た。こちらは堅くなって息を詰め、両方の家の中から幽《かす》かに洩《も》れてくる灯《ひ》の明りに、路次の敷石をからから踏み鳴らしながら帰ってゆく人影を見張っていると、闇《くら》がりでよく分らぬが、女はお茶屋のおかみらしく、中央《まんなか》に行くのが男で、背が高い。はてな、旦那ならばこうして一緒に帰ってゆくはずもなかろうと思っていると、一番|後《あと》の女と並んで、何かひそひそと話しながらゆくのは母親である。私は、
「ああ、母親のやつめ、出てゆく。そこの路次の出口まで客を送り出すのであろう。きっと、すぐ帰ってくるので、潜戸を開けたままにしているかも知れぬ」
と、早速気がついて、それらが闇がりに路次の角を曲ったのを見済ましておいて、入口のところに来てみると、はたして潜戸を開け放しにしている。
私は、うまくしてやったりと心にうなずきながら、つっと内へ入りながら、中から潜戸を閉めておいて狭い通り庭をずっと奥へ進むと、茶の間と表の間との境になっている薄暗い中戸のところに、そこまで客を送り出したものと見えて女がひとりで立っている。
そして出し抜けに私がはいって来たのを見て、
「ああ!」と慴《おび》えたように中声を発して、そのままそこに立ち竦《すく》んだ。
私は、いい気味だというように強《し》いて笑いながら、
「お園さん、一遍あんたに会いたいと思っていたのだ」と、つとめて優しくいいつつ、私はそのまま茶の間へ上がって、火鉢の手前にどっかと坐ってしまった。
女はそこらをかたづけていたらしかったが、もう、おずおずしながらしかたなく自分も上にあがって、向うの方に膝《ひざ》を突きながら、
「あんたはんが今ここへ来ておくれやしたんでは、私、どない言うてええかわかりまへん」と悄然《しおしお》としてふるえ声にいう。その眼は何ともいえない悲痛な色をして私を見ている。
私は、気味がいいやら、可愛いやらである。
そこへ、がらがらと表の潜戸の開く音がして、母親が戻って来た。
三
私は、入って来た時、よっぽど、あの潜戸の猿を落して、母親に閉め出しを食わしてやろうかと思ったが、それも、あんまり意地が悪いようで、それまでにはし得なかった。それというのも、そうまでになっても、私の心の内は、やっぱり何とかして、母子《おやこ》の心が、自分の方へ向いてくるように優しく仕向けたいからであった。
母親は通り庭から中の茶の間の前に入ってくると、思いがけなく、火鉢の向うに私が来て坐っているのを見ると、びっくりしてたちまち狂気のようになって怒り出した。
「あんたはん、何でここの家《うち》へ入っておいでやした。ここは私の家《うち》とちがいます」と、いいながら上《あが》り框《かまち》をあがって、娘に向って、
「お前もどうしてるのや、よう気いおつけんか。あんたが入れたんやろ」と、小言をいう。娘はじっとそこに坐ったまま、
「わたし、そんなことをしいしまへん。この方が自分で入っておいでやした」と尋常な調子でいっている。
私はじっと両腕を組んで、その場の光景を見ながら、母親から何といわれても、ふてぶてしく黙り込んで、身動きもせずに坐っていた。すると、母親は、さすがに手出しはし得なかったが、今にも打ちかかって来そうな気勢《けはい》で、まるで病犬が吠《ほ》えつくような状態《ありさま》で、すこし離れたところから、がみがみいっている。
「あんたはん、何の権利があってここの家《うち》へ黙って入っておいでやした。ここの家は私の家と違いまっせ」と、いいつつ肱《ひじ》を突っ張ってだんだん私の傍《そば》に横から擦《す》り寄って来て、
「黙ってよその家《うち》へ入り込んで来て、盗人《ぬすっと》……盗人!」と、隣り合壁に聞えるような、大きな声を出してがなりつづけた。
「警察へ往《い》てそう言うてくる。警察、警察。さあ警察へうせい。警察へ連れて往く」と、母親は一人ではしたなくいきり立ったが、私が微塵《みじん》も騒ごうとせぬので、どう手出しのしようもない。本人の娘はむすめで、これもどうしていいか当惑したまま、そこに坐って口も利《き》かずに母親の騒ぐのをただ傍見しているばかりである。私は小気味のよさそうに、あくまでも泰然としていた。すると母親は、急を呼ぶように声を揚げて、
「兄さん! にいさん!」と、左手の隣家《となり》の主人を呼んだ。その隣家は、去年の十一月の末、はじめてその路次の中へ女の家を探《たず》ねて入っていった時から折々顔を見て口をきき合っていたのであったが、先《せん》だって中《じゅう》からまたたびたび私が出かけていって、母親と大きな声でいい諍《あらそ》ったりするのを見かねて、もう七十余りにもなる主人の母親というのが双方の仲に入って、ちょっと口を利きかけていたのであった。旅館や貸席などの多いその一郭を華客先《とくいさ》きにして、そこの家では小綺麗な仕出し料理を営んでいたが、兄さんと呼ばれた主人はまだ三十五、六の背の高い男で、その主人とは私はまだ顔を見ただけで一度も口を利いていなかった。母親がそういって大きな声で呼んだので、越前屋《えちぜんや》という仕出し屋の若い主人は印の入った襟のかかった厚子《あつし》の鯉口《こいぐち》を着て三尺を下の方で前結びにしたままのっそりと入って来た。
そうして吟々いっている母親と私とのまん中に突っ立ったまま、「まあまあ、どちらも静かにおしやす」と、両方の掌《て》で抑える形をして、
「ちょうど好いとこどした。此間《こないだ》から私も見て知らん顔はしていましたけど、一遍お話を聴いてみたいと思うてたのどす」といって、そこに腰を下ろすと、母親は隣りの主人が入ってきたので気が強くなって、一層がみがみ言い募った。主人はそれを宥《なだ》めて、
「お母はん。まあそういわんと、話はもっと静かにしててもわかりますよって」といって、こんどは私の方に向い、
「兄さん、えらい済んまへんがちょっとあんたはん私のとこへ往《い》とっておくれやす。……いえ、私も及ばぬながらこうして仲に入りましたからにはこのままには致しまへんよって」と、いう。
けれども私は、今までもう幾度か、いろんな人間が仲に入ったにもかかわらず、それらは皆母親に味方して、邪魔にこそなれ、こちらの要求するとおり、一度だって、肝腎《かんじん》の本人に差向いに会わしてくれて納得のゆく話をさする取計らいをしてくれようとはしなかった、それを思うて、私は幾度か腹の内で男泣きに泣いて、人の無情をどんなに憤ったか知れなかった。これまでは、自分の熱愛する女がそうせよというなら、もう一生京都に住んで京の土になっても厭いはせぬとまで懐《なつ》かしく思っていたその京都を、それ以来私はいかに憎悪《ぞうお》して呪《のろ》ったであろう。出来ることなら、薄情な京都の人間の住んでいるこの土地を人ぐるみ焦土となるまで焼き尽してやりたいとまで思っているのである。他人はことごとく無情である、自分のこの切なる心を到底察してくれない。そんな他人に同情してもらったり、憫《あわ》れんでもらったりしようとはかけても思わぬ。自分の大切な大切な魂の問題である。そのためによし病《わずら》って死んだって、また恥ずべき名が世間に立とうとも自分ひとりのことである。何人にもどうしてくれといいたくない。それゆえにこそ、実に一口に言おうとて言えないくらい、さまざまに胸の摧《くじ》ける思いをして、やっと今晩という今晩、またと得られない機会を捉《とら》えてこうして女の家に入り込んだのである。今までの母親の仕打ちからいったならば、この機会を逸したが最後二度と再びこんな好い都合なことはないのである。私は隣家《となり》の主人に向っていった。
「有難うございますが、今までちょいちょい御覧のとおりの次第で大抵私の恥かしい事情はお察しであろうと思いますが、今晩はどうあっても、この本人の意向を、私自身で訊《き》きたいと思っているのですから」
と、私は、傍でさっきから口の絶え間もなく狂犬のように猛《たけ》っている母親には脇眼もくれず、向うに静かにして坐っている女を指しながら堅い決意を表わした。そうして久しぶりに見れば見るほど女が好くってたまらない。
すると主人は、
「そやから、このままにはしまへんというています。姉さんには私が必ず後で逢わせますよって、ちょっと私の家へ往とっておくれやす」と万事飲み込んだようにいう。
それで私も物わかりよく素直に、
「それではあなたにおまかせしておきます」と、きっとした調子でいって、起《た》ち上がりかけると、彼女はどう思案したものか、静かに坐ったまま、やっと口を切って、「あんたはん、ほんなら、これから松井さんへ往て話しとくれやす」と、きっぱりした調子でいう。
それで、私は一旦起ちかけた腰をまた下ろしながら、
「うむ、それもよかろう。松井さんへ往けというなら、あそこへ往って、あそこの主人に話を聴いてもらうのもわるくはないが、あんたも私と一緒に往くか」
そういって訊くと、女はそれきりまた黙ってしまって返事をしない。
「お前が一緒に往くなら私も往く。さあ、どうする」
傍にいる越前屋の主人は、その時口を入れて、
「それがよろしいやろ。ほんならそうおしやす。私も何や、途中から入って、前の委《くわ》しいことはちょっとも知らんのどすさかい。お隣りにいて、黙って見てもいられまへんよって、何とかお話をしてみようと思うたのどすけど、松井さんやったら、よう、今までのことも知ってはりますやろから」
「わたし後で往きますよって、あんたはん先き往とくれやす」と、やっぱり落ち着いた調子でいう。
私は頭振《かぶ》りをふって、
「それじゃいけない。私を先きに出しやっておいて、ここからまた閉め出そうとするのだろう。今晩はもうその手は喰わないんだから」
「そんなことしいしまへん。あんたはん一足先きいてとくれやす。わたしちょっと遅れて往きます」
「ああそうか、たしかに来るね?」
「ええ往きます」
隣家《となり》の主人も、長い間の入りわけを知っている、以前《まえ》の主人のところに往って話を聴いてもらうのが一等よかろうと言ってすすめるので、私はその気になって起って庭に下りようとすると、さっきからまるで狂気になって、何か彼かひとり語《ごと》をくどくどと繰り返して饒舌《しゃべ》りつづけていた母親は、私が立って上り框から庭に下りようとするのを見て、
「貴様ひとりで、勝手にさっさっとうせえ。内の娘《こ》はそんなところへ出て往く用はない」といって、またいつもの悪態を吐《つ》く。
そ
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