で、
「ああ、そうですか。そんなことをもいいましたか。……いやしかし、それだけ聞けば満足です。私ももう何年もの間|彼女《あれ》のことばかり思い続けて何をするにも手につかずお話のならぬ不自由な目をして来ましたが、まさか私一人の用くらいに事は欠きませんから、そんな心配は無用にしてくれ、それよりも一日も早く自分の決心をしてくれるようにいっておいてください」私はもう少しも毒のない、優しい心に帰りながら静かにそういった。
 主人は私のいうことを聞きながら、外の路次の方に気がかかるように、
「姉さんもう来やはりますやろ」といっているところへ、入口に立っていた越前屋の若い女房はそちらから、
「ああ来やはりました」と低声《こごえ》で知らせる。
 主人はそれで、表の間の方に立っていって出迎えながらわざと声を大きくして隣りの母親に聞えるように、
「お母はんえらい済んまへんが、どうぞ、今お話しましたとおりですよって、ちょっと姉さんをお貸しやしとくれやす。……あのおかたはもうさっき帰らはりましたよって、どうぞ安心してとくれやす」といって、そこへ、おずおず入ってきた隣りの女をやさしくいたわり招じ入れた。

  
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