っていた。その時の女あるじの口うらなどから細かに推察してみても、どうも、今の世話になっているその人間が女とさまで深いわけがあったとは考えられない。それどころではない、もとの女あるじが、
「三野村さんはあってもお園さんは、あんたはんも好きやった。三野村さんの死んだあとは、あんたはんのところに行く気やったのどすやろ」と一口いったことを思ってみても、女の底意は察することが出来るのである。私は、それを思うにつけても、毎度近松の作をいうようであるが、「冥途《めいど》の飛脚《ひきゃく》」の中で、竹本の浄瑠璃《じょうるり》に謡《うた》う、あの傾城《けいせい》に真実なしと世の人の申せどもそれは皆|僻言《ひがごと》、わけ知らずの言葉ぞや、……とかく恋路には虚《いつわり》もなし、誠もなし、ただ縁のあるのが誠ぞやという、思うにまかせぬ恋の悲しみの真理を語っている一くさりを思い合わせてふっとした行きちがいから、何年にも続いて、自分の魂を打ち込んで焦心苦慮したことがまるで水の泡になってしまったことを慨《なげ》いても歎《なげ》いても足りないで私はひとり胸の中で天道を怨みかこつ心になっていた。
 そして何とかして今
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