がほかにあろうとは思えない。……
 そうして心の中は瞋恚《しんい》の焔《ほのお》に燃えたり、また堪えがたい失望のどん底に沈んでしまったような心持になったりしながらもまたふと思い返してみると、女は長い間の苦界《くがい》から今ようやく脱け出《い》でて、ああして静かに落ち着こうとしているところである。それを無惨に突き崩《くず》そうとするのはみじめのようでもある。そうかと思うと、また自分という者を振り返ってみると、どうであろう。この真冬の夜半に寒風に身を曝《さら》して女の家の窓の下に佇みながら家へ入って行くこともならぬ。しかもこちらは彼女のために、長い間ほとんど自分のすべての欲求を犠牲にして出来る限りのことを仕尽して来ているのではないか。ああして温々《ぬくぬく》とした寝床などをしているのに、自分はどうかといえば、これから宿に帰って冷たい夜具の中に入って寂しく寝なければならぬのである。すると、またどう考えても道理に合わない母子《おやこ》の勝手至極を憤らずにはいられない。
「よし。どうあっても、これはこのままには棄てておかないぞ」と思ったが、あまりに心が疲労しているので、その晩はそのまま悄然《しょ
前へ 次へ
全99ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
近松 秋江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング