ように、
「ここの内お茶屋どすがな。何も遠慮することあらしまへん。おいでやしたらええのに」
 私はその家《うち》が揚げ屋をかねていることは、その時女主人がいうまで気がつかなかった。それととうから知っていたならば何の遠慮をすることがあろう、それにしても女はどういう心で私にはそれを明かさなかったか。旧《ふる》いことを思い出してみても最初行きつけのお茶屋から彼女を招《よ》ぶには並み大抵の骨折りではおいそれと来てくれなかった。それというのも今になっていろいろ思い合わすれば、やっぱりそういう深い男が始終ついているので滅多な客が自分の家《うち》へじかに来ることを好まなかったのかも知れぬ……それにしても五年前から自分と逢っていた場合の記憶をあの時はこうとさまざま思い浮べて見ると、それが何もかもみんな腹にもないことをただ巧んでしたりいったりしていたとばかりはどうしても思えない。……私はじっとひとり考え沈んでいた。

     九

 若奴も傍から折々思い直したように口を入れて、
「お園さんも三野村さんのところへよう行かはりましたなあ」
というと、女主人《おんなあるじ》はうなずいて、
「ふむ、よう通うて行てたあ」
といって話すところによると、彼らが馴染《なじ》みはじめの時分男は二、三人の若い画家と一緒に知恩院《ちおんいん》の内のある寺院に間借りをして、そこで文展に出品する絵などを描いていた。仲間の中でも彼がひとり落伍者《らくごしゃ》でついに一度も文展に入選しなかったが、お園は昼間体のあいている時間を都合し始終そこへ遊びに行っていた。そして画師《えし》が画枠《えわく》に向っている傍について墨を摺《す》ったり絵の具を溶かしたりした。
 女あるじは笑っていっていた。
「三野村さんあなた、勉強をおしやすのにそないに女を傍に置いたりしてよう絵が描けますなあいうて私がきくと、そなことない、お園が傍についておってくれんと絵が描けんおいいやすのどす。……そうどすか、わたしまた何ぼ好きな女かて傍についていられたりしたら気が散って描けんやろ思われるのに、そんなこというてはりました」
 私は、二人の情交の濃やかであったことを聞けばきくほど身体に血の通いが止まる心地がしながら、惚れた女を思う男の心は誰も同じだと、
「私だってそのとおりですよ。私の傍に引きつけておくことが出来ぬ代りに遠くにいてどんなに彼女《あれ》を思っていたか。その人間などはまだそうして傍に置いとくことが出来ただけでも埋め合せがつく」私は溢《こぼ》すようにいうのであった。
「三野村さんのようここでお園さんが傍にいるところでいうてはった。……頼りない女や。私が京都にいるからこうしているようなものやけど、東京の方にでも往ってしまえばそれきりやいうて、始終頼りない女やいうてはりました」
「ほんとにそのとおりだ。そしてお園は傍で聴いていて何というのです」
「お園さんただ黙って笑い笑いきいているだけどす。……ほて、そんなに惚れているくせにまた二人てよう喧嘩をする。喧嘩ばかりしていた。三野村さんよう言うてはりました。姉さん、ああして私のところへ遊びに来てくれるのはええが、顔さえ見ればいつでも喧嘩や。そしてしまいにはやっぱり翌日《あくるひ》までお花をつけることになるから来てくれるたびに金がいって叶《かな》わんいうてはりました。お園さんの方でもほんよう喧嘩をして戻ってかというのに、やっぱり戻らない、喧嘩をしながらいつまで傍についている」
 そういって、女主人がなおつづけて話すのでは、ずっと先のころひとしきりあまりにお園の方から男のところに通うて行くので女主人が気に逆らわぬように三野村のところへ遊びにゆくのもよいが両方の身のためにならぬからあまり詰めて行かぬようにしたがよいといっていい含めたのであった。するとちょっと見はおとなしいようでも勝気のお園はそれが癪《しゃく》に触ったといって一月ばかりも商売を休んでいたことがあった。その後も三野村のことで時々そんなことがあった。女主人と同じように彼女の母親もそんな悪足《わるあし》のような男がついているのをひどく心配して二人の仲を切ろうとしていろいろ気を揉《も》んでいた。それでしばらく三野村との間が中絶していたこともあったが、男の方でどうしても思いきろうとしなかった。いろいろに手をかえて母親の機嫌を取ろうとすればするほど母親の方では増長して彼をさんざんにこき下ろすのであった。そして一度でも文展に入選したら娘をやってもよいとか、東京から伴《つ》れて来ている女と綺麗に手を切ってしまえば承諾するとか、その場かぎりの体《てい》の好いことをいっていた。そして母親や女主人の方で二人の間を堰《せ》くようにすればするほど三野村の方で一層躍起になってお園が花にいっている出先までも附き纏《まと》うて商
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