知って一年ばかり経《た》ってから女には、京都に土着の人間で三野村という絵師で深い男があるということを聞いたので、その後京都に往って女に逢った時、軽く、
「三野村という人とは相変らず仲が好いのかい?」と戯弄《からか》うようにいって気を引いてみた。
 すると女は顔色も変えずに、
「あの人たまあにどす。それに奥さんのある人やおへんか」と、鼻の先でこともなげにいってのけたことがあった。
 女と三野村のことをいったのは後にも前にもそれきりであったのみならず、自分でもそれっきりその人間のことを考えてもみなかった。その男のことなど物の数にも思わなかったのである。
 そういうと女主人は、
「ええ、そりゃおした。そやけど三野村さんはあの女よりお園さんの方がどのくらい好きやったか知れまへん。……それで揉めたのどす」といって、前に遡《さかのぼ》って彼らの交情の濃やかであった筋道を思い出して話すのであった。
 その男ももとは東京か横浜あたりの人間で絵の修行に京都に来る時一緒に東から連れて来た女があった。それは以前から茶屋女であったらしく、京都に来ても京極《きょうごく》辺の路次裏に軒を並べている、ある江戸料理屋へ女中に住み込ませて、自分も始終そこへ入り浸っているのであった。話の様子では職人風の絵師によくあるような、あまり上品な人間でもなかった。技術も捗々《はかばか》しく上達しないで死んでしまったが女のことにかけては腕があったらしく、一方その女が喰いついていて離れようとしないのに自分ではひどくお園に惚れていた。
 女主人は今思い出しても、三野村がいとしくもありおかしくもあるというように笑いながら、
「あんなに惚れはって。……なあ、私、三野村さんがお園さんに惚れはったようにあんなにほれた人見たことおへんわ」そういってまた若奴と私に話しかけながら、「三野村さん、あんたお園さんのどこがようてそんなにほれたんどすいうて訊くと、三野村さんもお園さんの、ほんならどこが好《え》えというところもないけれど、ただこうどことなくおとなしいようなところがええいうのどす」
「じゃ、男の好きなのは誰の思うところも同じこった」
と、私は、その三野村が女を観《み》る眼にかけては自分と正《まさ》しく一致していたことを思うにつけても、なるほどと肯《うなず》けるのであった。女主人のいうとおり彼は深い心の底からお園に惚れていたのにちがいない。私もやっぱり女の起居《たちい》振舞などのしっとりして物静かなところが不思議に気に入っているのであった。そして、三野村の惚れようが傍《はた》の見る眼も同情に堪えないくらいそれはそれは切ないものであったことを女主人がしきりに繰り返していうのを聴かされると、またしても私がその三野村にまた輪をかけたほど惚れているのに、それを遺憾なくわからす術《すべ》のないのが焦躁《もどか》しかった。そして、
「私だってあの女には真実《ほんと》に惚れているんですよ」といったが、幾ら真剣なところを見せようとしても、それをそのとおり受け入れてくれそうにないので、半ば戯談にまぎらして、いっているよりほかなかった。
 女主人はこっちの見ているとおり、そういってもただ、
「ええ」と心にもない義理の返辞をしているに過ぎなかった。そして三野村の話をしかけさえすれば好い機嫌で向うから進んでいろんな話をそれからそれへとするのであった。
「じゃその人はここへ――あなたのところへ来たのですな」
「ええもう始終ここへ来てはったのどす。……ひところよう来てはったなあ」女あるじは若奴の方に話しかけた。
「よう来てはりましたなあ」
 私は、そんなことからすでにその男の敵でなかったことを思った。自分もずっと以前ならば、惚れた女の抱えられている家へ入り込んで行くくらいのことをしかねない人間ではあったが、どこまでも自分の顔を悪くしないで手際《てぎわ》よく事を運びたいとあまり大事を取り過ぎたのがいけなかった。やっぱりこういうことは押しが強くなくってはいけないのだと今さらのように心づきながら、
「そうですか……始終こちらへ来ていたのですか」私は思わずそれを繰り返してしばらく開いた口が塞《ふさ》がらなかった。
 女主人は顔で若奴の坐している長火鉢の横を示しながら、
「ようここへお園さんと二人で並んで私とこのとおりに話してはりましたがな、家でもお園さんとよう泊まりやはった」
 彼女の語ることは向うではその心でなくても言々句々縦横無尽に私の肺腑を刺した。私は真実胸の痛みを撫《な》でるようにしながら、
「そうですか。……しかし私には幾ら惚れていてもその女の抱えられている屋形《やかた》まで押しかけてゆくのは何となく遠慮があって、それは出来なかったのです」私は自分の慎みをいくらか誇りかにいうと女主人はそんなことは無用のことだという
前へ 次へ
全25ページ中21ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
近松 秋江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング