私も、あれほど会いたい、見たいと思っていながら、そうして面と顔を差し向ってみると、即座に何からいい出していいやらいいたいことがあり余って、かえって何にもいいえないような気がして、初心《うぶ》らしくただ黙っていると、主人は、小言のように、
「さあ、兄さんも何とか姉さんに言葉をかけてお上げやす」と言ったが、二人ともそのままやっぱり黙っていた。
 そこでかえってそこにいて用のない生酔いの婆さんが傍からまたしてもうるさく口出しをするのを、彼女も私も同じ思いで、神経に障るように自然と顔に表わしていた。主人はそれを払い退《の》けるように、
「お婆さんあんた、あっちい往《い》といでやす。あんた自分で関係せんというといやしたやないか」とたしなめておいて、女の方を見て言葉を改めながら、
「姉さん、今いろいろあんたはんから聞きました事訳《ことわけ》はあらまし私から兄さんにお話して兄さんも心よう納得してくりゃはりましたよって、それはどうぞ安心しておくれやす……」といって、しばらく間《ま》をおいて一層声に力を籠《こ》めて、
「その代り私がこうして仲に入って口を利きました以上は、姉さん今度また私にまでも※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]をお吐《つ》きやすようなことがおしたら、その時こそ今度は私が承知しまへんで……。よろしいか」と、念を押すように言った。
 彼女はそれでまた温順《おとな》しく、「へえ」とうなずきながら両手の襦袢《じゅばん》の袖《そで》でそっと涙を拭いている。まだ商売をしている時分から色気のないくらい白粉気《おしろいけ》の少い女であったが、廃《や》めてから一層|身装振《なりふ》りなど構わぬと思われて、あたら、つくれば、目に立つほどの標致《きりょう》をおもいなしにか妙に煤《すす》けたように汚《よご》している。そのうえ今泣いたせいか美しい眼のあたりがひどく窶《やつ》れている。ここのあるじがさっきも、戻って来てからの話に、
「姉さんがおいいやすのが本間《ほんま》に違いおへんやろ。自分も好きで世話になってる旦那があるのやったら、あんなものやおへん。この隣りに越しておいでやしてからでももう三月か四月になりますけれど、姉さんが綺麗にしておいでやすのを内の者だれかてちょっとも見いしまへん。お湯にかて、そうどすなあ、十日めくらいにおいでやすのを見るくらいのものどす」といって、隣家《となり》にいてそれとなく気のついている、女の平常《ふだん》のことを噂《うわさ》していたが、今じっと女の容姿《すがた》を打ちまもりながら心の中で、なるほど主人のいうとおり、今の彼女にはつくるの飾るのという気は少しもないものと見た。そして私もやっと口を切って、彼女に話しかけた。
「私も一伍一什《いちぶしじゅう》のことを話して、あんたにとくと聴いてもらいたいことは山ほどあるけれど、それをいい出す日になれば腹も立てねばならぬ、愚痴もいわねばならぬ。とても一と口や二た口では言い尽せぬし、あんたもそんな病後のことだから、それはまたの日に譲っておく。それで今こちらの親方から聴いたとおり、しかたがない好い機《おり》の来るまで辛抱しているつもりでいるから、あんたもその気でいてもらわねばならぬ」私は、あれほど、逢わぬ先は会ったらどうしてくれようと憤怒に駆られていたものが、そうして悄然と打ち沈んでいるのを面と向って見ると、打って変ったように気が弱くなってしまって、怨みをいうことはさておき、かえって、やっぱり哀れっぽい容姿《すがた》をしている女をいたわり慰めてやりたい心になった。
 すると彼女は私からはじめて物をいいかけられて、どんな気になったのか、今までの温順しく沈んでいた様子とはやや変った調子になって、
「あんたはん何で山の井さんへいて、その話をしておもらいやさんのどす」と、神経質の口調で不足らしく言う。山の井というのは初めて女を招《よ》んでいた茶屋の名である。
 私は、女のそういった発作的の心持を推測しかねて、ちょっと不思議そうに彼女の顔を見たが、
「あんた今、この場でそんなことをいい出したってしかたがないじゃないか」といったが、おおかた彼女の腹では自分の心にもなく今の人間に急に脱ぐことの出来ない恩義を被《き》なければならぬようになったのも、自分の知らぬ間に母親とその男との仲に立ってもっぱら周旋したのがその客で入っていたお茶屋の骨折りであったことを思って、もう今となっては、ちょっと抜き※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《さ》しならぬ破目《はめ》になってしまったのも、私が最初からの茶屋を通して話を進めなかったことの手ぬかりを言うのであろうと思った。けれども、そうなり入った原因《もと》をいえばまた彼女にもそうした責めがないでもなかったのだ。

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